第13話
寒々とした作業小屋のランプの下で、私は息を呑んだまま立ち尽くしていた。
膝の上のブナ材の道具箱。その二重底から現れた革の包みには、二種類の紙が収められている。
一枚は、夫の角ばった拙い筆跡で書かれた私信。
そしてもう一枚は、青と金の王家の紋章が押された、古びた羊皮紙の公文書だった。
手紙は封筒に入っているわけではなく、革紐をほどけばすぐに開ける状態だった。革の包みには防湿のための蜜蝋が丁寧に塗り直されていたから、夫は晩年、道具の手入れをする合間にこの包みを開け、私宛ての手紙をそっと滑り込ませたのだろう。何十年も前に仕舞い込んだまま放置されていたのではなく、彼が命の終わりを意識しながら、自分の手でここに遺したのだ。
私は震える指先で、まず公文書の方を広げた。
分厚い羊皮紙の端は経年でわずかに飴色に変色していたが、墨の文字は驚くほど鮮明に残っていた。
表題には『軍功証明および退役記録』と記されている。
日付は五十年近く前。私が王都を追われ、このロストックの町で彼に出会うよりも、さらに数年前の日付だった。
「……北部方面軍、第三工兵大隊、曹長マティアス」
声に出して読み上げると、胸の奥がきゅっと窄まるような感覚を覚えた。
彼がかつて軍にいたことは、二十六歳の時に役場で婚姻届を出した際、除隊証明書を見せてもらって知っていた。けれど、あの時の彼は「塹壕を掘って丸太を担ぐだけの土方仕事だ」と笑って、詳しいことなど何ひとつ語らなかったのだ。
羊皮紙に並ぶ公的な記録を、私は一文字ずつ目で追った。
そこに記されていたのは、五十年前の北方戦役――いわゆる北嶺の冬嵐と呼ばれる、過酷な山岳防衛戦の記録だった。
突如として国境を越えて侵入した敵の別動隊に対し、マティアス曹長率いる工兵小隊は、零下二十度を超える氷雪の中で峡谷の吊り橋を爆破し、敵の進路を遮断。さらに、雪崩によって孤立した後方の避難民と輜重部隊を救出するため、自ら凍結した急流に飛び込んで丸太を組み、わずか半日で頑丈な仮設橋を架け渡した、とあった。
退路を確保された避難民数百名と負傷兵は無事に防衛線を越え、敵の奇襲作戦は完全に瓦解した。
その功績に対し、軍司令部および王家より、下級貴族である『勲爵士』の叙爵と、特別な功労年金の受給資格が授与される予定であった、と書かれている。
「勲爵士……マティアスさんが?」
思わず声が漏れた。
平民の兵卒が一足飛びに貴族に列せられるなど、平時であればまずあり得ない破格の待遇だ。
けれど、文書の最後には、王宮の書記官による無慈悲なほど簡潔な追記が添えられていた。
――本人の強い希望により、爵位の叙任および功労年金の受給は辞退。一平民としての除隊を受理。
理由の欄には、ただ一言、
『故郷の土に戻り、樹木を育てる平民としての生計を望むため』
とだけ記されていた。
国を救った功績をすべて手放し、彼は支給された最低限の除隊手当と、あのブナ材の道具箱一つだけを抱えて、この町外れの荒れた温室へやってきたのだ。
隠された莫大な年金も、今さら請求できるような広大な領地も、何ひとつありはしなかった。彼は最初から、名誉も富もすべて自分の意志で断ち切り、ただの一人の泥まみれの庭師として生きる道を選んでいた。
「急流に飛び込んで丸太を組む、か……」
私は羊皮紙から目を離し、道具箱の隅に収まっていた使い込まれた大槌にそっと手を伸ばした。
樫の木の柄は、幾重にも夫の手の油と汗を吸って黒光りしている。
思えば、あの人の手際は最初から、ただの庭師の枠に収まるものではなかった。
結婚して間もない頃、大雨で温室の裏の斜面が崩れかけたことがあった。あの時、マティアスは夜半の土砂降りの中、迷うことなく裏山へ駆け出し、太い丸太の端を手斧で素早く刻んで組み木を作った。濁流が足元を洗う泥濘に腰まで浸かりながら、大槌で太い杭を寸分の狂いもなく打ち込み、見事な土留めを一晩で組み上げて温室を守り切ったのだ。
寝室にあるあの頑丈なベッドの木枠もそうだ。角材を組み合わせたホゾ穴の正確さと、四十余年使ってもきしみ一つ立てない頑丈さ。道具小屋の頑丈な作業棚も、板壁の補強も、すべて彼が一人で手掛けたものだった。
木材の重心を見極め、土の締まり具合を読み、水がどこへ流れるかを瞬時に判断する。
あれはすべて、氷の川に丸太を渡し、人の命を支える橋を架けてきた男の技術そのものだったのだ。
「土方仕事だなんて、よくもまあそんな嘘を……」
大槌の硬い柄を握りしめながら、私は小さく息を吐き出した。
もし若い頃の私がこの書類を見たら、なぜ貴族になれる道を捨てたのかと呆気にとられたかもしれない。けれど、彼と四十四年間、同じ丸テーブルを囲んで暮らしてきた今の私には、彼の選んだ理由が痛いほどよく分かった。
あの人は、他人の血の上に築かれた名誉など欲しくなかったのだ。
氷の川に飛び込み、凍傷になりながら仲間を逃がした戦場で、彼は多くの戦友を失ったのだろう。その犠牲の対価として貴族の仲間入りをし、宮廷の権力争いの中で愛想笑いを浮かべて生きるなんてこと、あの不器用で真っ直ぐな男に耐えられるはずがなかった。
頭に浮かんだのは、きらびやかな勲章を胸につけた英雄の姿ではない。
二十五歳の冬、大寒波が来た夜に、吹き込む冷気を遮るために巾木の隙間に泥を詰めていた彼の後ろ姿だった。
重い木鉢を軽々と抱え上げ、大鋏を構えて生垣を寸分の狂いもなく水平に刈り揃えていた、あの無言の背中。
あの人は戦場にいた時も、庭師になってからも、何ひとつ変わっていなかったのだ。
雪嵐の中で丸太を組んで避難民を救った手と、痛む私の足のために一晩中ナイフで木靴を削ってくれた手は、まったく同じ、あの泥だらけの温かい手だった。
夫が英雄だったから、私の人生が幸せだったのではない。
一本の木を大切に育て、町の人たちのために生垣を整え、毎晩私の隣で麦粥をすすってくれたあの男が、たまたま若い頃に、その誠実さゆえに多くの人を救っただけの話なのだ。
腑に落ちた想いを胸に、私は公文書を丁寧に折り畳み、作業台の上に置いた。
そして、私はもう一枚の紙――夫が遺した、あの不器用な文字の便箋を手に取った。
ざらざらとした安物の紙の感触が、指先に伝わってくる。
『クラウディアへ。
お前にこれを読ませる時は、俺が先に死んだ時だ。驚かせてすまない。
俺は最初から、お前がどこの誰かを知っていた』
冒頭の二行が、再び目に飛び込んできた。
軍功を捨てて平民に戻ったマティアスが、なぜ王都の伯爵令嬢だった私の素性を知っていたのか。
あの日、泥だらけで温室に転がり込んできた二十四歳の私を見て、彼は何を思い、なぜあの塩辛いスープをよそってくれたのか。
そして――三十歳のあの春、父オルディン伯爵の冤罪が晴らされた、あの公報の裏に何があったのか。
冷え切った冬の夜気の中、私はランプの芯を少しだけ押し上げ、夫が遺した四十余年目の告白へと、静かに視線を滑らせていった。




