第14話
ランプの油の匂いが漂う作業小屋の中で、私は膝の上に広げた夫の便箋に目を落とした。
使い慣れないペンを強く握りしめて書いたのだろう、紙の裏側にまでインクの筆圧がくっきりと残っている。
『クラウディアへ。
お前にこれを読ませる時は、俺が先に死んだ時だ。驚かせてすまない。
俺は最初から、お前がどこの誰かを知っていた』
その言葉の後に、マティアスの訥々とした語り口そのままの文章が続いていた。
『五十年前、北嶺の戦場で工兵をやっていた頃、俺はお前の父親に一度だけ会っている。
前線の補給が雪崩で途絶えかけた時、王都の物資調達部から自ら泥まみれの長靴を履いて、陣地まで状況を確かめに来た文官がいた。それがオルディン伯爵だった。「兵士の腹が減っては橋は架からん」と怒鳴り、周囲の反対を押し切って、自分の懐から金を工面してまで麦袋と乾パンを工兵隊に届けてくれた人だった。
その時、伯爵の胸ポケットから銀のペンの蓋が覗いていた。娘からもらった大事なお守りだと笑っていた。王都に残したクラウディアという娘に、早く庭の花を見せてやりたいと、焚き火の前で嬉しそうに語っていたのを俺はよく覚えていた』
文字を追う私の指先が、激しく震えた。
お父様が。あの前線で、マティアスと出会っていたなんて。
『だから四十六年前の冬、温室に転がり込んできたお前を見た時、すぐに分かった。名乗った名前もそうだが、お前が握りしめていたあの銀のペンの蓋を見て、確信した。
あの誠実な人が横領などで牢に入り、命を落とすはずがない。俺は最初からそう信じていた。だが、泥だらけで震えているお前に、俺が父親を知っているとは言えなかった。家を失い、親類に裏切られて傷ついたお前に、過去を突きつけるような真似はできなかった』
手紙の文面から、あの出会った日のマティアスの沈黙が、鮮やかによみがえってきた。
なぜ素性を問いたださなかったのか。なぜ名乗らない私に、あの塩辛いスープを差し出し、一晩中ナイフを振るって木靴を削ってくれたのか。
あの人は最初から、私が誰の娘で、どれほど理不尽な目に遭ってきたかを知った上で、ただ静かに傘を差し伸べてくれていたのだ。
『あの日、お前が温室に転がり込んできたあの冬から、俺は元の上官へ手紙を書いた。
第三工兵大隊の元連隊長で、当時は王都の軍務局にいた人だ。俺が戦場でお前の父親から直接物資を受け取った日時と、物資の数量の記録を証言書にして送った。
だが、一介の退役兵の証言ひとつで貴族の不正を覆すことなどできやしない。当時の補給部隊の仲間や、荷を運んだ輜重兵の生き残りを全国から探す必要があった。除隊して故郷へ帰った連中や、各地を転々としている戦友の居場所を突き止めるのに、手紙を何十通もやり取りした。手紙が届かなかったり、死んでいたりして、証言を揃えるのに六年近くかかってしまった。
時間がかかってすまない。もっと早く晴らしてやりたかった』
「そんな……」
声が震え、手紙の文字が涙で滲んだ。
三十歳のあの春、広場の掲示板に貼り出された父の名誉回復の公報。
『元前線兵士の新たな証言に基づき再審理が行われた』という、あの一行。
あれは偶然でも、王家の気まぐれでもなかった。
昼間は泥にまみれて苗木を育て、夜になれば不自由な手でランプの下に座り、全国の戦友へ手紙を書き続けていたあの男が、六年間かけて手繰り寄せた奇跡だったのだ。
あの夜、父の無実を知って泣き崩れる私の背中を撫でてくれたマティアス。その夜更けに、一人で月を見上げながら安堵の酒をあおっていた彼の横顔が、胸の奥で激しく疼いた。
『無実が晴れた時、お前にすべてを打ち明けようと思った。
だが、言えなかった。
お前に恩を着せたくなかったんだ。俺に感謝しているから一緒にいるんだと、お前に思わせたくなかった。俺はお前に感謝されたいからお前を愛したんじゃない。ただ一人の男として、お前と一緒に生きたかった。
それに……もしすべてを話したら、お前が王都の貴族の世界へ帰ってしまうんじゃないかと思った。俺のみすぼらしい庭から、いなくなってしまうんじゃないかと怖かったんだ。
卑怯な男だと怒ってくれていい。情けない奴だと笑ってくれ。
だが、お前と過ごした四十余年間に、ひとつも嘘はない。
お前と生きたこの人生が、俺の生涯の誇りだ』
手紙はそこで終わっていた。
最後に、彼の震えるような署名が一つだけ残されていた。
「なんなのよ、それ……!」
静まり返った作業小屋の中で、私の喉から押し殺した叫びが漏れた。
ぽたぽたと便箋の上に涙が落ちて、マティアスの名前を濡らしていく。
嬉しい。胸が張り裂けそうなくらい、温かくて、愛おしくて、たまらない。
けれど、それと同じくらい、猛烈な悔しさが込み上げてきた。
「どうして……どうして生きているうちに言ってくれなかったのよ、大馬鹿者……!」
私は手紙を胸に抱きしめ、誰もいない小屋の中で泣き崩れた。
どうして一人で抱え込んでいたのか。
どうして「お前の父親を救ったのは俺だ」と、威張ってくれなかったのか。
恩を着せられたってよかった。感謝から始まったって、私があなたを愛していたことに変わりはなかったのに。
貴族の世界になんて帰るはずがないことくらい、あの丸テーブルを囲んで二十年も三十年も暮らしてきたなら、分かっていたはずなのに。
「ずるい人……。最後まで格好つけて、一人で全部背負って逝っちゃうなんて、ずるすぎるわよ……!」
怒りと、悲しみと、感謝がごちゃ混ぜになって、涙が止まらなかった。
けれど、泣いているうちに、私の唇からふっと自嘲の笑みが漏れた。
まったく、彼らしい。
不器用で、無口で、誰よりも頑固で、自分のことなんて何ひとつ誇ろうとしない。
あんなに強い男が、私がどこかへ行ってしまうのを怖がっていたなんて。四十余年も連れ添った妻を失うのが怖くて、秘密を墓場まで持っていこうとしたなんて。
愛されていたのだ。
出会ったあの冬の夜から、彼が息を引き取ったあの朝まで、私は一秒たりとも疑いようのないほど、この不器用な男に愛され抜いていたのだ。
涙を拭い、私は濡れた便箋を平らに広げ直した。
四十四年間、二人で泥にまみれて苗を育ててきたあの日々は、何ひとつ偽物なんかじゃなかった。
彼がくれた木靴も、ツゲの櫛も、一輪の野薔薇も、すべてが本物の愛の証拠だった。
小屋の窓の外では、夜明け前の冷たい風が静まり、東の空がうっすらと白み始めていた。
私は夫の手紙を胸にしっかりと押し当て、ぐっと鼻をすすった。
「まったく……あとで天国へ行ったら、思いっきり文句を言ってやりますからね、マティアスさん」
そう呟いた私の顔には、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、確かな笑みが浮かんでいた。




