最終話
手紙を読んでから、数週間が過ぎた。
二月の半ばを越えると、屋根の軒先から落ちる雪解け水が、トントンと小気味よい音を立てるようになった。風の冷たさの中にも、どこか土の匂いが混じり始め、ロストックの町に早春の足音が近づいていた。
王家の紋章が押された公文書と、マティアスが遺してくれた手紙は、役場へ届けることも、誰かに見せることもせず、元の革の包みに戻した。そして、道具箱の底板の下、一番大切な油布の下にそっと戻してある。
爵位も、恩賞の請求も、今の私には何ひとつ必要なかった。
あの手紙に書かれていた、『お前と生きたこの人生が、俺の生涯の誇りだ』という不器用な文字。それさえ手元にあれば、私のこれからの人生には十分すぎるほどの支えだった。
毎朝、鏡の前で銀髪をツゲの櫛で梳き、清潔な麻の前掛けを締める。
一人分の麦粥を煮て、昨晩の残りの野菜スープと一緒に丸テーブルで食べる。二人で座っていた丸テーブルの向かい側は空いているけれど、そこに漂う空気はもう寂しいだけの冷たさではなかった。四十余年間、あそこに確かに座っていた男の温もりが、木肌の艶となって今も私を包んでくれているからだ。
「さてと。今日も苗の手入れをしなきゃね」
立ち上がり、温室の重いガラス戸を開ける。
春を待つ苗床には、冬を越した若木やハーブの鉢が整然と並んでいる。
朝の九時を過ぎた頃、街道の方からガラガラと荷車を引く音が聞こえてきた。
「クラウディアさん、おはようございます!」
温室の入り口に現れたのは、パン屋のハンスだった。荷車には、森の堆肥場から運んできてくれたばかりの、完熟した腐葉土の樽が二つ積まれていた。
「おはよう、ハンスくん。朝早くからすまないわね」
「何言ってるんですか! 重い土を運ぶのは俺の役目ですから。腰を痛めたら大変なんだから、クラウディアさんは指図だけしててください!」
ハンスは逞しい腕で重い樽を抱え上げ、温室の土間の隅へ手際よく下ろしてくれた。
「ありがとう、本当に助かったわ。これ、昨日煮詰めたばかりの林檎のジャムよ。パンにつけて食べてね」
素焼きの小瓶を手渡すと、ハンスは顔をほころばせて受け取ってくれた。
「わあ、クラウディアさんの林檎ジャムだ! これ、店のみんなが大好きなんですよ。ありがとうございます!」
自分のできない力仕事は、素直に近所の人たちに頼る。その代わり、私のできる庭の恵みや知恵をお返しする。そうして支え合いながら生きていく暮らしの温かさは、マティアスが私に遺してくれた、何よりも大切な財産だった。
昼前になると、春の植え付けの準備を始めた町の人たちが、次々と苗を求めてやってきた。
「クラウディアさん、いるかい?」
声をかけてきたのは、近所の農家に嫁いだリーナだった。手には買い物籠を提げている。
「いらっしゃい、リーナちゃん。今日は何を探しているの?」
「裏庭の日当たりのいい場所に、薬草と、それから玄関先に置く花がほしいの。何かいい鉢はある?」
「それなら、こっちの棚を見てちょうだい」
私はリーナを作業台の奥へ案内した。
「このカモミールとタイムは、去年の秋に株分けして寒さに当ててあるから、根がとても強いわよ。それから花なら、この淡い黄色の冬薔薇はどうかしら。マティアスが晩秋に丁寧に剪定してくれた苗なの。ほら、もうこんなにふっくらした蕾がついているでしょう?」
素焼きの小鉢を両手で持ち上げて見せると、リーナが歓声を上げた。
「わあ、本当! 綺麗な蕾ねえ。マティアスのおじちゃんが手入れしてくれた苗なら、絶対に枯れないわね」
「ふふ、そうね。植え替える時は、底石をしっかり敷いて、お水のお部屋を指一本分空けるのよ。昔教えたでしょう?」
「もちろん覚えてるわ! 今でもちゃんと守ってるんだから」
笑い合いながら、私は苗の土が崩れないよう、濡らした藁と麻布で鉢を丁寧に包んで手渡した。
「元気に育てるのよ」
「うん、ありがとう、クラウディアさん!」
リーナが大事そうに鉢を抱えて帰っていく後ろ姿を見送りながら、胸の奥に誇らしいような静かな喜びが満ちていった。
私たちが育てた苗が、この町の家々の庭で根を張り、花を咲かせ、人々の暮らしを彩っていく。夫が守り、私が受け継いだこの小さな営みは、途切れることなく明日へと繋がっているのだ。
夕暮れ時、客足が途絶えた温室で、私は作業台の上の剪定鋏を手に取った。
使い込まれて黒光りする柄と、研ぎ澄まされた鉄の刃。
夫の手入れが行き届いたその道具を見つめながら、私は静かに息を吸い込んだ。
あの人は、国を救った元工兵の英雄だった。
けれど、彼が本当に望んでいたのは、勲章でも爵位でもなく、このロストックの片隅で、泥にまみれて木を育て、誰かのために一本の苗を手渡す、この慎ましい暮らしだったのだ。
そして何より――。
私は作業台の窓から、夕日に染まる庭の木々を見渡した。
あの日、王都を追われて行き倒れ同然だった私を迎え入れ、四十余年を共に生きてくれたマティアス。
私は彼に守られ、愛されて生きてきた。けれど、それだけではなかったのだ。
戦場で深く傷つき、名誉を捨てて孤独に生きていたあの不器用な男にとっても、私と一緒に暮らした四十余年間は、かけがえのない幸福だったのだ。
私と向かい合って麦粥をすすり、寒波の夜に肩を並べて苗を守り、二人で丸テーブルを囲んで笑い合った日々。
あの人は私を愛することで、自分自身の傷だらけの人生を、誇らしいものとして生き切ることができたのだ。
『お前と生きたこの人生が、俺の生涯の誇りだ』
夫の最期の告白が、再び胸の中で温かく響いた。
守られていただけではない。私もまた、あの男を愛し、彼の誇りになっていた。
その確信が、七十歳の私の背筋を、すっと真っ直ぐに伸ばしてくれた。
温室の棚の片隅に、マティアスが一番最後に挿し木をした冬薔薇の鉢植えがあった。
夕暮れの柔らかな光を浴びて、淡い黄色の花弁が一枚、ほころび始めている。二十六歳の春に教会で手渡された、あの一輪の野薔薇とまったく同じ、優しい色だった。
私は剪定鋏を構え、花の根元にある小さな枯れ葉を一つ、迷いのない手つきで切り落とした。
シャキン、と澄んだ金属音が温室の中に心地よく響く。
「さてと。明日は春キャベツの苗床を均して、ハーブの種を蒔かなきゃね」
鋏を丁寧に布で拭い、道具箱の上へ置いた。
春はもう、すぐそこまで来ている。
私は夫が遺してくれたこの庭で、町の人たちと手を取り合いながら、私自身の足で、私自身の明日を生きていく。
温室の扉を押し開けると、冷たく澄んだ早春の風が、私の白い髪を優しく揺らして通り抜けていった。




