第8話
三十歳の春を迎えていた。
結婚して四年が経ち、私たちの暮らしはすっかり町に根を下ろしていた。温室で育てる苗木の種類も増え、春先になれば近隣の村からも注文が入るようになっていた。マティアスと二人、泥だらけになって働き、夜には丸テーブルを囲んで湯気の立つスープをすする。かつて王都で暮らしていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思えるほど、私の毎日は穏やかだった。
その知らせを目にしたのは、役場へ街路樹用の若木を納品した帰り道のことだった。
広場の中央にある石造りの掲示板の前に、普段は見られないほどの人だかりができていた。王都からの使者が早馬で届けたという、金泥の縁取りが施された王宮の公報が貼り出されていたのだ。
普段なら足を止めることもないのだが、人々のざわめきの中から、聞き覚えのある不穏な名が耳に飛び込んできた。
「……財務卿派閥のランツ子爵が、領地没収の上で終身禁錮だってよ」
「軍の補給物資を横流しして私腹を肥やしてたらしい。六年前の事件が、再調査で全部暴かれたそうだ」
心臓が早鐘を打った。
私は人垣をかき分け、掲示板の正面へ進み出た。
貼り紙に並ぶ格式張った公用語の文字を、食い入るように追う。
そこには、六年前の北方戦役における軍需物資の欠損事件について、元前線兵士の新たな証言と関係者の証言に基づき再審理が行われたと記されていた。物資を着服していた主犯はランツ子爵らであり、当時、責任を問われて獄死したオルディン伯爵――私の父は、欠損に気づいて私財を投じて補填しようとしていた被害者であったと、公式に認められたというのだ。
父の横領の嫌疑は完全に晴らされ、オルディン家の名誉回復が宣言されていた。
「お父様……」
膝から崩れ落ちそうになり、掲示板の木の枠を必死で掴んだ。
周囲の話し声が遠のいていく。
無実だった。最初から父は、何ひとつ恥じるようなことなどしていなかったのだ。
震える足で町外れの温室まで走った。木靴が泥を跳ね上げ、息が苦しくて喉が焼けるようだったけれど、一刻も早くマティアスの元へ帰りたかった。
「マティアスさん……!」
作業小屋の戸を乱暴に開けると、苗箱の手入れをしていたマティアスが驚いて顔を上げた。
「クラウディア?どうした、息を切らして」
「お父様の……お父様の罪が、晴れたの……!」
私は丸テーブルにすがりつき、広場の掲示板に書かれていたことを夢中で話した。
ランツ子爵が捕まったこと。兵士の証言で不正が暴かれたこと。父の名誉が、王家の名において正式に回復されたこと。
マティアスは持っていた剪定鋏を静かに置き、私の話を一言も挟まずに最後まで聞いてくれた。
「そうか。……晴れたんだな」
彼の低い、穏やかな声を聞いた瞬間、私の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
けれど、それは喜びだけの涙ではなかった。
「悔しい……っ、悔しいの、マティアスさん……!」
私はテーブルに突っ伏して、声を上げて泣いた。
「どうしてお父様が生きていらっしゃるうちに、分かってくれなかったの!? お父様は冷たい牢の中で、誰にも信じてもらえないまま、たった一人で亡くなったのに……!今さら名誉を返されたって、お父様はもうどこにもいらっしゃらないのに……!」
胸を掻きむしられるような無念さが、後から後から溢れて止まらなかった。
父の潔白が証明されたのは嬉しい。けれど、それ以上に、生きている父に「信じていたよ」と言ってあげられなかった悔しさが、暗い穴のように胸に口を開けていた。
マティアスは何も言わなかった。
「もう泣くな」とも、「よかったじゃないか」とも言わなかった。
ただ静かに私の隣の椅子へ腰を下ろすと、その大きくてごつごつした手で、私の震える背中をゆっくりと撫で続けてくれた。暖炉の火の温もりと、彼の規則正しい手のひらの動きだけが、荒れ狂う私の心を少しずつ鎮めてくれた。
夕暮れが迫る頃、ようやく涙が止まった私に、マティアスは温かい白湯を差し出してくれた。
「……すいません。取り乱してしまって」
「いい。泣いて当たり前だ」
マティアスはそう言って、私の前の席に座り直した。
「お前の父親の話を、聞かせてくれないか。……どんな人だったんだ」
彼が私の実家のことを尋ねてきたのは、これが初めてだった。
私は湯呑みの温かさを指先で確かめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「真面目で、不器用な人でした。貴族の駆け引きが下手で、いつも書類の山に埋もれていて……でも、花がとても好きな人だったんです」
「花が?」
「ええ。屋敷の書斎の窓辺には、いつもお父様が庭から摘んできた野の花が挿してありました。私が熱を出した時、枕元に持ってきてくれたのも、庭の小さな鈴蘭だったんです。『土から咲く花は、見ているだけで元気を分けてくれる』って、笑いながら教えてくれました」
話しているうちに、牢の中で衰弱していった父の姿ではなく、花を愛おしそうに眺めていた優しい父の笑顔が思い出されてきた。
「お前が植物の世話を大切にするのは、父親譲りだな」
マティアスが珍しく柔らかい眼差しで私を見た。
「そうかもしれません。お父様が教えてくれたから、私はここで、マティアスさんと一緒に土を触っていられるんだと思います」
翌朝、私たちは町の高台にある教会の裏手へ向かった。
見晴らしのいい丘の斜面に、一本の大きな樫の木が立っている。父の遺骨は王都の共同墓地にあるため手元にはないけれど、私が王都を出る時に唯一持ち出せた父の遺品――小さな銀のペンの蓋を、四年前にこの樫の木の根元に埋めてあったのだ。
マティアスは温室から、今朝切り取ったばかりの白い冬薔薇を十輪、丁寧に束ねて持ってきてくれた。
二人で樫の木の根元に膝をつき、白い花を手向ける。
「お父様、聞こえますか。あなたの無実が、国中に知らされましたよ」
手を合わせ、風の渡る空を見上げた。
「私は今、とても素敵な人と一緒に暮らしています。毎日土にまみれて、花を育てて、温かいご飯を食べています。だから……どうか安心して、安らかに眠ってください」
隣でマティアスも、深々と頭を下げて黙祷を捧げていた。
木々を揺らす初夏の風が、父の穏やかな手のひらのように、私の頬を優しく撫でて通り過ぎていった。
その日の夜。
部屋の明かりを落とした後、ふと目が覚めると、窓辺の丸テーブルにマティアスが一人で座っていた。
彼は普段ほとんど口にしない強いブランデーの瓶を置き、小さなグラスの酒を、音も立てずにゆっくりと喉へ流し込んでいた。
窓から差し込む青い月光が、彼の横顔を照らしている。
その顔は、いつもの無口な庭師の顔というよりは、何か途方もなく長い役目を一つ終えた兵士のような、深くて重い安堵の色を湛えているように見えた。
「……マティアスさん?」
ベッドから声をかけると、彼は少し驚いたように振り返り、グラスを置いた。
「起こしたか」
「ううん。……眠れないの?」
「いや。月が綺麗だったからな。……もう寝る」
彼は小さく微笑み、グラスを片付けると、私の眠るベッドの毛布を優しく掛け直してくれた。
その夜、彼がなぜあんなにも安らかな顔で月を見上げていたのか。
父の潔白を証明した「元前線兵士の新たな証言」の裏に、いったい誰のどんな祈りと奔走があったのか。
当時の私は、まだ何ひとつ知る由もなかった。




