第7話
結婚して一年が過ぎ、季節は再び初夏を迎えていた。
二人で作った部屋の丸テーブルは、毎日の食事や作業の合間に使われ、すっかり手の油が馴染んで柔らかな光沢を帯びていた。朝は二人で麦粥をすすり、昼は苗床で泥まみれになって働き、夜は窓から吹き込む夜風を感じながら、明日植え替える鉢の数を相談する。
大きな贅沢はできなくても、去年のように冬の寒波に怯えることもなく、生活は少しずつ落ち着きを見せていた。
そんなある日の午後、温室の前に見慣れない立派な屋根付き馬車が停まった。
降りてきたのは、ロストックの町でも指折りの穀物問屋を営むマイヤー氏だった。恰幅のいい体に上質な羅紗の外套を羽織り、革の手袋を嵌めた手で温室のガラス戸を叩いた。
「ごめんよ、マティアス。ちょっと大事な相談があってね」
作業の手を止めたマティアスが、前掛けで手を拭いながら応対に出た。私も泥のついた木べらを置いて、彼の少し後ろに控えた。
マイヤー氏の用件は、思いもよらない破格の仕事の打診だった。
「実はな、領都の外れに新しく構えた別邸の大庭園を任せられる庭師を探しているんだ。広大な敷地に噴水や温室を配した、自慢の庭でね。腕の立つお前を、専属の頭領として一家丸ごと迎え入れたい」
提示された条件は、思わず息を呑むほど好待遇だった。
今私たちが一年かけて稼ぎ出す額の、優に三倍を超える年俸。領都の別邸の敷地内にある清潔な離れが住居としてあてがわれ、炭や薪、食料の一部も商会から支給されるという。
「奥さんも一緒に連れていくといい。こんな町外れの吹きさらしで泥にまみれているより、よっぽど楽な暮らしができるぞ。奥さんには庭仕事なんてさせず、屋敷の奥で静かに暮らしてもらえばいいんだからな」
マイヤー氏は親切心からそう言って、丸々と肥えた顔に愛想のいい笑みを浮かべた。
悪意のない、純粋な好意からの提案だった。
けれど、マティアスはその場ですぐに頷きはしなかった。
「……滅多にないありがたい話です。ですが、俺の一存では決められません。妻と相談させてください」
「そうかい。まあ、若い奥さんなら喜ぶはずだ。返事は明日の夕方まで待つよ」
マイヤー氏はそう言い残し、満足そうに馬車へと戻っていった。
その日の夕食後、丸テーブルの上にマイヤー氏から預かった覚え書きの羊皮紙が置かれていた。
ランプの灯りに照らし出された数字は、平民の私たちが一生かかっても貯められないような額だった。
鉄鍋で煮たインゲン豆と干し肉のスープを飲み干し、器を片付けた後、マティアスが腕を組んで私を見た。
「クラウディア。お前はどう思う?」
彼は最初から断るつもりで話を振ってきたのではなかった。真剣な、私の考えを尊重しようとする目だった。
「領都へ行けば、お前はもう冷たい井戸水で手を荒らさなくて済む。重い苗の鉢を運ぶことも、泥で爪を汚すこともない。……ここよりずっと上等な服も着られるし、温かい部屋にいられる」
その言葉には、妻に苦労をさせているのではないかという、彼なりの負い目が微かに滲んでいた。
私は手の中の素焼きの湯呑みを見つめた。
確かに、領都へ行けば生活は一変するだろう。元貴族だった頃のような贅沢が戻ってくるわけではないけれど、日々の糊口をしのぐ不安からは完全に解放されるはずだった。
でも、と私は胸に手を当てて考えた。
「マティアスさん。マイヤー氏の庭園に行ったら、あなたはどんな木を育てるの?」
「……旦那の好みに合わせる。外国から取り寄せた珍しい花木や、見栄えのいいトピアリーの仕立てが主になるだろうな。枯らしたら商談に障るから、手入れは神経を使う仕事になる」
「私たちがここで育てているような、町の農家のための林檎の木や、風除けの柊は?」
「商人の屋敷の庭には植えないな。あれは実用の木だ」
マティアスの声は平坦だったけれど、どこか寂しげだった。
私は彼の手を見た。
木屑と土が染み込んだ、太くて傷だらけの手。この手は、気取った大商人の客に見せびらかすための作り物の庭をいじるよりも、春の寒さに耐える幼苗の根を優しく包んでいる時の方が、ずっと生き生きとしていたはずだ。
そして何より、私自身がどうしたいのかは、最初から決まっていた。
「マティアスさん、私ね、泥だらけの手がちっとも嫌じゃないんです」
私がはっきりと告げると、マティアスが目を見張った。
「マイヤー氏のお屋敷で綺麗な服を着て、あなたのお帰りを待つだけの暮らしなんて、息が詰まってしまいます。私はここで、あなたと一緒に泥にまみれて、春の芽吹きを待つ時間が好きなんです。近所の農家のおじいさんが『お前たちの苗は枯れずにしっかり根付いたよ』って笑ってくれるのが、何よりも誇らしいんです」
立ち上がり、彼が作ってくれた丸テーブルの縁をそっと撫でた。
「それに、この部屋が大好きなんです。二人で掃除して、カーテンを縫って、あなたが削ってくれたこのテーブルがあって……ここが私たちの家でしょう? お金がたくさんもらえるからって、ここを捨てて誰かのお屋敷の離れに移るなんて、私はいやです」
一気にまくしたてると、マティアスは呆気にとられたように私を見つめていた。
それから、彼の日焼けした顔がふっと緩み、大きな手のひらで口元を押さえて小さく吹き出した。
「……なんだよ。俺と同じじゃないか」
「えっ!?」
「俺も、あそこへ行くのは気が進まなかったんだ。頭を下げて金持ちのご機嫌を取るような庭を作るより、ここで一本でも多く、この土地に根を張る苗を育てたかった」
マティアスは深く息を吐き出し、凭れていた背筋を伸ばした。
「だが、お前が少しでも楽をしたいなら、連れて行こうと思ってた。俺の意地で、お前に貧乏を押し付けるわけにはいかないからな」
「もう! 貧乏だなんて思っていません!」
私は思わず彼の肩を軽く小突いた。
「十分すぎるほど豊かです! 美味しいご飯があって、温かいベッドがあって、大好きな人が隣にいるんですから!」
言い切ってから、自分で自分の台詞の熱さに気づいて顔が赤くなった。
マティアスも耳の先を赤く染めながら、けれどしっかりと私の手を取った。
「そうだな。断ろう。俺たちの庭は、ここだ」
「はい!」
重なり合った手のぬくもりが、テーブル越しに伝わってくる。
翌日、マティアスはマイヤー氏の商館へ出向き、丁重に辞退の旨を伝えた。マイヤー氏はひどく残念がりながらも、「変わり者夫婦だが、お前たちの育てる苗の良さはその頑固さから来てるんだろうな」と笑って受け入れてくれたという。
夕暮れ時、私たちは温室の裏の苗床に並んで立ち、春に挿し木をしたばかりの小さな若木たちにたっぷりと水をやった。
如雨露の先から落ちる水滴が、夕日を浴びてきらきらと輝いている。
遠くの大邸宅の庭園ではなく、この小さな土の上で。
自分たちの足で立ち、自分たちの意志で選んだ日々の確かさが、胸の奥を静かに満たしていた。




