第6話
夏が近づく初夏の風が吹き抜ける頃、私たちは夫婦になった。
華やかな婚礼衣装も、大勢の参列者も、鳴り響く鐘の音もない。けれど私にとって、それは生涯で最も誇らしく、胸がいっぱいになる一日だった。
まず二人で向かったのは、町の中心にある小さな役場だった。
窓口の長机に座る書記官は、私の顔とマティアスの顔を交互に見比べ、それから一枚の婚姻届の羊皮紙を広げた。
「婚姻の申請だな。新郎マティアス、新婦クラウディア。……奥さんは身分証がないようだが、どこから来たんだい?」
その問いに、私の指先が思わず強張った。
王都を出てから丸二年、町外れの温室で暮らしてきたけれど、公的な書類に名前を書くのは初めてだった。家名を書くわけにはいかないし、没落して戸籍を失った身の上だと騒ぎになれば、マティアスに迷惑がかかるかもしれない。
私が息を呑んだその時、隣に立っていたマティアスが、懐から一枚の古びた革紙を取り出して机の上に置いた。
「俺の除隊証明書だ。北部方面軍の第三工兵大隊にいた。彼女は二年前に身寄りをなくして俺のところで働いてる。町の宿屋の旦那とパン屋の親父が証人になってくれるはずだ」
書記官は革紙を手に取り、そこに押された軍の公印を見るなり、眼鏡の位置を直して小さく居住まいを正した。
「……なるほど、元兵隊さんかい。怪我で退役したってわけだ。二年間の居住実績と雇用の実態があるなら、証人の署名さえ後で揃えば問題ないよ」
さらさらと羽ペンが走り、私たちの名前が公簿に並んで書き込まれた。
役場の外に出た時、私は大きく息を吐き出してマティアスを見上げた。
「びっくりしました……! マティアスさん、兵隊さんだったんですね」
「ん? 言ってなかったか」
「聞いてませんよ! 道具箱がやけに頑丈だとは思ってましたけど!」
少し抗議の声を上げると、マティアスは頭を掻きながら困ったように眉を下げた。
「除隊してもう五年以上経つからな。自慢できるような階級でもないし、工兵なんて塹壕を掘って丸太を担いで橋を架けるだけの土方仕事だ。庭師の仕事と大差ない」
そう言って笑う彼の手の甲には、あの太い古傷が走っている。泥臭い仕事だったと本人は言うけれど、厳しい軍規の中で生き抜いてきた人の手なのだと知り、私はその手をぎゅっと握り直した。
役場の用事を済ませた後、私たちは町の外れにある古びた石造りの教会へ向かった。
苔むした石段を登り、重い木扉を開けると、堂内は外の暑さが嘘のようにひんやりと静まり返っていた。祭壇の前に立っていた老神父様は、日頃から温室の薬草を買いに来てくれる気心の知れた人だった。
「二人で誓いを立てに来たのかい。いい日を選んだね」
神父様は穏やかに微笑み、祭壇の蝋燭に小さな火を灯してくれた。
私たちは祭壇の前に並んで立った。
指輪を買う余裕はなかった。けれど、マティアスは作業着の胸元から、そっと一輪の花を取り出した。
今朝、温室で一番早くほころんだ、淡いクリーム色の野薔薇だった。花弁の縁がほんの少しだけ朝露で濡れていて、初夏の光を透かして柔らかく輝いている。
「指輪の代わりだ」
マティアスは私の左手を取ると、その手のひらに野薔薇を一輪、そっと乗せてくれた。
棘は綺麗に削り落とされていて、肌に触れる茎は滑らかだった。
「神の御前で誓う。俺は生涯、クラウディアを大切にする。病む時も、貧しい時も、この手で守り抜く」
低く、けれど少しの迷いもない声だった。
私の視界が熱い涙で揺れた。手のひらの上の野薔薇の香りが、鼻腔いっぱいに広がる。
「私も誓います。マティアスさんの妻として、嬉しい時も苦しい時も、ずっと隣で支え合って生きていきます」
神父様が二人の頭上に手をかざし、静かな祝福の祈りを捧げてくれた。
アーメン、と声を揃えて祈りを終えた時、マティアスが私の顔を見て、照れくさそうに、けれど今までで一番優しい顔で笑った。
「これで、夫婦だな」
「はい……! 夫婦ですね!」
私は胸の前で野薔薇を抱きしめ、何度も頷いた。
教会を出て温室へ戻った私たちは、すぐに腕まくりをして作業に取りかかった。
夫婦になったのだから、もう私が納屋の藁の上で寝て、マティアスが作業小屋の板間で寝るわけにはいかない。二人で暮らすための「家」を作らなければならなかった。
温室の北側に、かつて道具や肥料を放り込んでいた六畳ほどの古い板間があった。何年も使われておらず、埃と蜘蛛の巣だらけだったその部屋を、今日から私たちの寝室兼居間にすることにしたのだ。
「クラウディア、埃が舞うから外にいろ」
「だめです、二人で暮らす部屋なんですから、私もやります!」
私は手拭いを頭に巻き、箒と雑巾を構えて部屋へ飛び込んだ。
まずは天井の蜘蛛の巣を払い、床板の泥を何度も水拭きする。すきま風が入る板壁の割れ目には、マティアスが漆喰を練って手際よくコテで塗り込んでくれた。窓のガラスを酢水で磨くと、曇っていた視界がぱっと晴れ、庭の緑と初夏の青空が部屋いっぱいに差し込んできた。
「わあ……見違えるように明るくなりましたね!」
「ああ。思っていたより床板もしっかりしてる」
部屋が綺麗になったところで、次は家具だ。
小屋には買い揃えるような家具はほとんどない。けれど、マティアスが「何が欲しい?」と聞いてくれた。
「保護されるだけのお客さんじゃないんだ。お前が毎日気持ちよく過ごせる部屋にしたい」
その言葉がたまらなく嬉しかった。私は遠慮せずに、ずっと胸に描いていた望みを伝えた。
「小さな丸い食卓がほしいです。二人で向かい合って、お茶やご飯が食べられるような。それから……窓にカーテンを掛けたいです。夜になったら、ちゃんと落ち着けるように」
「よし、作ろう」
マティアスは納屋から厚みのあるブナの古材を引っ張り出してきた。
庭先に腰を下ろし、鋸で丸く切り出し、鉋で表面を平らに削っていく。シュッ、シュッ、と小気味よい音が庭に響き、薄い木の削り節が風に舞う。彼が器用に角を落とし、脚を四本継ぎ足していく様子を、私は庭の井戸端で見守りながら、市場で買ってきた生成りの麻布に針を走らせた。
カーテンの上下を折り返して縫い、突っ張り棒を通すための袋を作る。縫い物は令嬢時代に散々叩き込まれていたから、これくらいの手仕事ならお手の物だった。
夕暮れ前には、部屋の真ん中にすべすべとした素朴な丸テーブルが据えられ、窓辺には柔らかな麻のカーテンが掛けられた。風が吹くたびにカーテンがふわりと揺れ、木の清々しい香りが部屋を満たす。
「次は寝床だな」
マティアスが角材を組んで作ってくれた頑丈なベッドの木枠の上に、二人で作った手製のマットレスを敷いた。
大きな麻袋を二枚縫い合わせ、中に天日で干したばかりの新しい乾燥藁を隙間なく詰め込み、さらにその上に、近所の羊飼いから安く譲ってもらった羊毛の端切れを敷き詰めた特製だ。
出来上がったマットレスの上に腰を下ろしてみると、ふんわりと沈み込み、藁の甘い香りが立ち上った。
「すごい……! 全然痛くないし、あったかいです!」
「藁だけだと腰が痛くなるからな。羊毛を混ぜて正解だった」
マティアスも満足そうに木枠を叩いた。
納屋の冷たい床に敷いた藁とは比べ物にならない、本物の温かい寝床だ。この場所で、これからは毎日この人と一緒に眠り、一緒に起きるのだと思うと、胸の奥がきゅっと甘く疼いた。
その日の夕暮れ、私たちは出来立ての丸テーブルを囲んで最初の夕食をとった。
テーブルの中央には、素焼きの小瓶に挿した、今朝のあの淡い野薔薇が飾られている。
献立は、昼のうちに煮込んでおいた白花豆と塩豚のスープ、それにこんがりと焼いたライ麦パンだ。
「マティアスさん、どうぞ」
「ああ、いただきます」
向かい合ってスプーンを動かす。
丸いテーブルは二人で座るのにちょうどいい大きさで、手を伸ばせばすぐに相手の指先に触れられる距離だった。
「不思議ですね。昨日までと同じスープなのに、自分の部屋で、このテーブルで食べていると、なんだか何倍も美味しい気がします」
「そうだな。……俺も、こんなに落ち着いて飯を食ったのは初めてだ」
マティアスはスープを飲み干すと、少し照れくさそうに視線を落とし、それからぽつりと言った。
「クラウディア」
「はい?」
「……妻になったんだな、お前が」
あまりにも率直なその一言に、私の心臓が跳ね上がった。
「はい。マティアスさんの妻になりました」
マティアスはそっと手を伸ばし、テーブルの上の私の手を包み込んだ。
ごつごつとして、傷だらけで、けれど温かい手。
「苦労させることもあるかもしれんが……よろしく頼む」
「苦労なんて思いません。私の方こそ、よろしくお願いします、旦那様」
わざと『旦那様』と呼んでみると、マティアスは目を見張り、それから耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……その呼び方はやめろ、落ち着かない」
「ふふ、じゃあ、今まで通りマティアスさんですね」
笑い合う声が、柔らかなカーテンの揺れる部屋の中に溶けていく。
窓の外では夕闇が濃くなり、初夏の星が一つ、二つと瞬き始めていた。
名誉も財産も失った私だったけれど、この小さな部屋と、一輪の薔薇と、隣で照れているこの人がいれば、もう何もいらなかった。ここが私の、私たちの、世界で一番確かな居場所だった。




