第5話
二十六歳の春がやってきた。
あの厳しい寒波を乗り越えた山桜と林檎の苗木たちは、春の柔らかな光を浴びて、力強い青葉と蕾を誇らしげに膨らませていた。
春は庭師にとって一年で最も忙しい季節だ。雪解け水で湿った土を掘り起こし、冬を越した幼苗を一本ずつ素焼きの鉢へ植え替える作業が連日続いていた。
二年前の私なら、苗の根を傷つけないように土をほぐすだけで青ざめていただろう。けれど今では、木べらを差し込む角度ひとつで根鉢を崩さず、新しい腐葉土と混ぜ合わせた赤土を鉢の隙間に均等に突き固めることができるようになっていた。
「クラウディア、その林檎の鉢上げが終わったら、市場出しの荷造りを頼む」
苗床の奥で太枝の剪定をしていたマティアスが、手を止めて声をかけてきた。
「はい! もう最後の十鉢ですから、すぐ終わります!」
私は土のついた前掛けで額を拭い、手際よく苗の根元を整えた。
市場へ出す苗の荷造りにはコツがいる。ただ荷車に放り込めばいいというものではない。揺れる荷車の中で新芽が擦れ合って折れてしまわないよう、葉の柔らかい若木から順に、湿らせた藁で幹を軽く巻いて麻縄で結ぶのだ。枝の向きを互い違いに噛み合わせ、鉢同士がぶつかって割れないよう隙間に籾殻を詰めていく。
この荷造りの手順も、昨年の春にマティアスから教わったものだった。
作業小屋の前で二人並んで荷車に鉢を積み込んでいると、マティアスが私の手元をじっと見ていた。
「……ずいぶん手際が良くなったな。縄の結び目が緩んでない」
「マティアスさんに毎日厳しく仕込まれましたからね! 最初は結び目が解けて、苗を倒しそうになって怒られたのを覚えてますよ」
「怒っちゃいない。危ないと言っただけだ」
ぶっきらぼうに言い返す彼の口元が、わずかに緩んでいた。
二人で仕立てた荷車を引いてロストックの朝市へ向かうと、私たちの苗床の前には次々と近隣の農家や町の住人が集まってきた。
「マティアスのところの苗は、根がしっかり張ってるから植え付けの失敗がないんだよな」
「奥さんが書いてくれた木札の通りに肥料をやったら、去年の木犀が綺麗に花を咲かせたよ!」
買いに来てくれた人たちの言葉に、私は顔がほころぶのを止められなかった。「奥さん」と呼ばれたことには少し胸がどきりとしたけれど、慌てて否定するのも野暮な気がして、笑顔でお釣りと苗を手渡した。昼前には荷車に積んでいた五十鉢の苗木がすべて完売し、私たちは空になった荷車を押して町を後にした。
帰り道、市場で得た代金の中から、生活に必要な品を買い足した。
粗塩と菜種油、それに少し奮発して、肉屋の店先で燻製のいい匂いをさせていた豚の塩漬けベーコンの塊を一つ買った。
その日の夕食は、私が腕を振るった。
作業小屋の炉に火を熾し、鉄鍋でざく切りの春キャベツとベーコンをじっくり煮込む。去年の秋に乾燥させておいたタイムとセージの葉を一筋指先で揉んで落とすと、小屋いっぱいに香ばしい湯気が立ち上った。
マティアスが最初によそってくれたあの塩辛いスープと比べれば、格段に上等な夕餉だ。
「できましたよ。冷めないうちに食べてください」
素焼きの深皿にスープをよそい、焼きたてのライ麦パンを添えて差し出す。
マティアスは木匙を手に取り、無言でスープを一口すすった。それからパンをちぎって口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
「……うまいな。キャベツの甘みが出てる」
「よかった! ハーブが効きすぎたらどうしようかと思ってたんです」
向かい合って座り、二人で温かいスープをすする。
特別なご馳走ではないし、高価な銀器も白いテーブルクロスもない。けれど、泥で汚れた作業台の上で、二人で並んで食べるこの時間が、私にとって何よりも贅沢で満ち足りたものになっていた。
かつて王都の屋敷で、堅苦しい作法に縛られながら一人で食べていた豪華な食事よりも、ずっと美味しくて、ずっと温かい。
食事が終わり、私が空になった器を片付けようと立ち上がった時だった。
「クラウディア、ちょっと待て」
マティアスが珍しく改まった声で私を呼び止めた。
振り返ると、彼は作業着のポケットに手を入れて、何かを探っていた。やがて取り出されたのは、薄い油紙で包まれた平たい小包だった。
「……これを受け取ってくれ」
差し出された包みは手のひらに収まるほどの大きさで、ずっしりとした重みがあった。
「何ですか、これ?」
「開けてみろ」
言われるままに油紙の結び目をほどくと、中から現れたのは、見事な飴色に磨き上げられた一本の櫛だった。
きめ細かく硬いツゲの木で作られた、飾り気のない素朴な櫛。けれど、櫛の歯の一本一本が丁寧にナイフで削り出され、先端が丸く整えられていた。指でなぞってみても、ささくれや引っかかりは一つもない。表面には蜜蝋が薄く擦り込まれていて、しっとりとした木の香りが鼻腔をくすぐった。
「ツゲの木を切った時の余りだ。夜なべ仕事で削った」
マティアスは私の視線を避けるように、窓の外の暗がりを見つめながらぽつりと言った。
「お前、髪を梳かす暇もないくらい働いてるだろ。……綺麗な髪なのに、麻紐で縛りっぱなしじゃ傷む」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ね上がった。
手の中の櫛を見つめる。
王都を追われ、泥だらけの服でこの町に流れ着いてから丸二年。身なりを構う余裕なんてどこにもなかった。髪は作業の邪魔にならないよう後ろで乱暴に束ねていただけだし、櫛なんて贅沢品を買い直すお金があるなら、苗の土や肥料に回すべきだと思っていた。
それなのに、彼は私の髪を見ていてくれたのだ。
太くて傷だらけの指で、夜遅くまでランプの油を惜しみながら、一本ずつ丁寧にこの歯を削ってくれていたのだ。
ツゲの滑らかな木肌を握りしめると、胸の奥から熱いものが溢れ出してきて、視界が滲んだ。
「クラウディア……? 気に入らなかったか。素人の手慰みだから、歯並びが揃ってないかもしれんが……」
慌てたように眉を寄せるマティアスを見て、私は首を力いっぱい横に振った。
「違います! 気に入らないなんて、とんでもない……! 嬉しいです。世界で一番、嬉しい贈り物です!」
私は立ち上がり、彼が削ってくれた櫛で、束ねていた髪をそっと梳いた。
驚くほど滑らかに髪の間を通り抜けた。頭皮に当たる木の歯は柔らかく、痛むどころか、まるで手で撫でられているように心地よかった。
「ほら、見てください。一本も引っかかりません。こんなに綺麗に梳かせたの、二年ぶりです!」
涙を浮かべながら笑う私を、マティアスは呆然としたように見上げていた。
その真っ直ぐな瞳を見つめているうちに、私の胸の中にずっとあった想いが、確かな形となって溢れ出してきた。
行き倒れ同然の私に温かいスープをくれたこと。痛む足のために一晩で木靴を削ってくれたこと。大寒波の夜、並んで苗を守り抜いたこと。そして、私の髪のためにこの櫛を作ってくれたこと。
私はもう、ただの居候としてこの人のそばにいたいのではない。
「マティアスさん」
「……なんだ」
「私、マティアスさんが好きです」
静かな作業小屋の中に、私の声がはっきりと響いた。
マティアスが目を見張り、息を呑む音が聞こえた。
「この二年間、あなたと一緒に泥にまみれて、一緒にご飯を食べて……私、生まれて初めて、自分の居場所を見つけたんです。あなたの不器用な優しさが、あなたの削る木の匂いが、大好きなの」
恥ずかしさで顔が燃えるように熱かったけれど、視線だけは逸らさなかった。
マティアスは固まったまま、しばらく私を見つめていた。やがて、彼の日焼けした頬がみるみるうちに赤く染まり、耳の先まで真っ赤になっていくのが分かった。
彼は大きな手のひらで顔の半分を覆い、深く息を吐き出した。
「……参ったな」
「え……?」
「俺の方から言うつもりだったんだ。春の苗が全部売れたら、ちゃんと言おうと思ってたのに」
マティアスは覆っていた手を下ろすと、真っ直ぐに私の手を取った。
ごつごつとした硬い手が、私の手を包み込む。
「俺もお前が好きだ、クラウディア。最初にお前が温室に飛び込んできた時から、ずっとだ。お前がここに来てから、俺の味気ない暮らしが全部変わった。……お前がいない毎日は、もう考えられない」
太い声が、微かに震えていた。
握られた手の温もりが、じんじんと指先から体中へ伝わってくる。
「マティアスさん……!」
「俺には立派な屋敷も、贅沢な暮らしもやれない。だが、お前を一生大切にする。……俺のそばにいてくれ」
「はい……! 喜んで!」
重なり合った二人の手の中で、削りたてのツゲの櫛が、春の夜のランプの灯りを浴びて静かに艶めいていた。




