第4話
ロストックの町外れで暮らし始めて、二度目の冬が巡ってきた。
あの日マティアスが削ってくれた木靴は、すっかり私の足の形に馴染み、油を塗り重ねたおかげで濃い飴色へと変わっていた。納屋の藁の上で眠る生活にも慣れ、朝は井戸水で苗床を潤し、昼は木札の整理と薬草の乾燥、夕方は土を篩にかけて明日の仕込みをする。私の手のひらは令嬢だった頃の柔らかさを失い、親指と人差し指の腹にはしっかりとした硬い豆ができていた。けれど、その豆を見るたびに、自分が自分の足で生きているという実感が湧いて嫌いではなかった。
そんなある日の午後、北の空から急激に不穏な冷気が立ち込めてきた。
北嶺の山肌から吹き降ろす風が、刃物のように肌を刺す冷たさを帯び始めている。空は重苦しい鉛色に濁り、地を這うような唸り声を上げて木立を揺らしていた。
「マティアスさん、空の色がおかしいです」
温室の入り口で空を見上げる私に、裏の苗床から戻ってきたマティアスが低い声で応じた。彼の表情は、普段の無愛想さとは違う張り詰めた険しさを帯びていた。
「大寒波だ。今夜は骨まで凍るぞ。井戸も凍りつくかもしれん」
「そんなに……! 温室の苗は大丈夫なんですか?」
「危ない。特に秋に接ぎ木したばかりの山桜と、林檎の若木だ。根が一度でも凍結したら、中から組織が破れて一晩で全滅する」
全滅、という言葉に背筋が凍りついた。
あの苗木たちは、マティアスが秋の間ずっと泥だらけで台木に切れ込みを入れ、芽を傷つけないよう慎重に蝋を塗って育ててきたものだ。私も一本ずつ木札を書き、毎日土の乾き具合を確かめてきた。あれが全滅したら、春の売り上げが吹き飛ぶだけでなく、積み重ねてきた数ヶ月の苦労がすべて灰になってしまう。
「ぼさっとするな、日が暮れる前に手を打つぞ」
「はい! 何をすればいいですか!?」
「納屋から古い藁筵と麻袋をあるだけ引っ張り出せ。それから外壁の板戸の隙間を塞ぐ。冷気を通したら終わりだ」
私たちは駆け足で納屋へ向かった。
乾燥藁の束と麻袋を抱えられるだけ抱えて温室へ運び込む。木枠のひびやガラスの継ぎ目からは、ヒョウヒョウと甲高い風切り音が響いていた。
マティアスが金槌を手に取り、上部の隙間に当て木をして素早く釘を打ち込んでいく間、私は地面に近い木枠の継ぎ目を点検した。しゃがみ込むと、板壁の根元から氷水のような風が直接足首に吹き付けてくるのが分かった。
「マティアスさん、ここ!一番下の巾木が浮いていて、冷気が苗床の棚の下に直接流れ込んでいます!」
「そこか!」
マティアスが振り返る。私は麻袋をナイフで細長く裂き、木べらを使って巾木の隙間に力任せに押し込んでいった。二枚、三枚と重ねて詰め、最後に濡らした土を隙間の手前に盛って目張りにする。泥は夜の間に凍りついて固まり、風を遮る壁になってくれるはずだった。
「よく見つけたな、クラウディア」
頭の上から降ってきた短い言葉に、胸が弾んだ。彼の焦りをほんの少しでも減らせたことが嬉しかった。
「次は鉢の移動だ。外側の棚にある若木を全部、中央の地面へ降ろすぞ。中央にまとめて寄せれば、互いの土の熱で冷えにくくなる」
「分かりました、私が運びます!」
私たちは袖をまくり上げ、外側の棚に並ぶ素焼きの鉢を運び始めた。
土の詰まった鉢は思いのほか重く、持ち上げるたびに腕の筋が引き攣る。それでも落とさないよう両腕で抱え込み、温室の中央へ隙間なく並べていく。マティアスも太い腕で二鉢同時に抱え、猛烈な勢いで運んでいく。
二百鉢近くあった若木を中央に寄せ終えた後、解いた藁を両手一杯に掴み、密集させた鉢の隙間に押し込んでいった。土が冷気に直接触れないよう分厚く藁を敷き詰め、その上から大きな藁筵を二重に被せて、四隅に重しのレンガを置いた。
外はすでに真っ暗になり、猛烈な地吹雪の音がガラスを激しく揺らしていた。
作業小屋に戻ると、寒さで指先がかじかんでうまく曲がらなかった。炉の火に薬缶をかけ、薄い乾燥カモミールの茶を淹れる。マティアスに木椀を差し出すと、彼の手も泥と藁屑にまみれ、指先が紫色に冷え切っていた。
「……すまないな、こんな時間まで」
湯気を吸い込みながら、マティアスが低く呟いた。
「何を言っているんですか。私の仕事でもあるんですから、当然です」
「お前は元々、こんな泥仕事をする身の上じゃなかったはずだ」
不意に言われた言葉に、私は息を呑んだ。
あの日拾われてから一度も、私の過去を聞いてこなかった彼が、初めて私の生い立ちに触れたのだ。動揺を悟られないよう、私は努めて平然とした声を返した。
「私はもう、ただの庭師見習いです。それに、あの子たちが春に芽吹くのを見たいのは私も同じですから」
マティアスは茶を喉に流し込むと、立ち上がって厚手の外套を羽織った。
「俺は温室で夜を明かす。夜半過ぎの冷え込みで風穴が開いたら、すぐ直さなきゃならん」
「でしたら、交代で見張りましょう。二時間ずつです」
「馬鹿を言え。女の体が保つ寒さじゃない」
「保ちます!」
私は立ち上がり、彼の前に立ちはだかった。
「一人で起きていたら、集中力が切れて肝心な時に気づけません。火の番と温室の温度の確認です。私を足手まとい扱いしないでください!」
一歩も引かずに見つめ返すと、マティアスは太い息を吐き出して頭を乱暴に掻いた。
「……頑固だな、お前は」
「頑固なのはお互い様です!」
結局、私の提案が通った。
夜半過ぎ、交代で私が外套を着込んで温室へ向かった。
ランタンの灯りを掲げて進むと、昼間塞いだ巾木の隙間からは冷たい風が吹き込んでいなかった。泥と麻袋の目張りが、外の氷嵐をしっかりと遮ってくれていたのだ。
中央に寄せた苗床の筵の下にそっと手を入れてみる。
藁に包まれた鉢の土は冷たくなってはいたものの、まだ凍りついてはいなかった。密集させた土の微かな熱と藁の層が、か弱い若木の根を守り抜いていた。
「よかった……耐えてる」
筵の端がめくれていないかを確かめて歩き、二時間の見回りを終えて作業小屋に戻ると、マティアスが炉の前で待っていた。
「大丈夫です! 土は凍っていませんでした。目張りも持ちこたえています」
私が報告すると、マティアスは心底安堵したように肩の力を抜いた。
「そうか。……なら、朝まで保つな」
それから彼は鉄瓶の白湯を椀に注いでくれた。
「飲め。手が氷みたいになってる」
「ありがとうございます」
二人で並んで丸太椅子に腰掛け、温かい湯をすする。パチパチとはぜる炭の音を聞きながら、隣に座る彼の肩の温もりが驚くほど心強かった。
朝になり、風がぴたりと止んだ。
冬の陽光が差し込む温室で、二人で中央の筵をめくる。
姿を現した山桜と林檎の苗木たちは、一本も枝を萎れさせることなく、固い冬芽をしっかりと空に向けていた。土を指で掘り返してみても、柔らかい湿り気を保ったままで凍結の跡はなかった。
「……生き残ったな」
「はい! 一本も枯れていません!」
私が弾んだ声を上げると、マティアスが振り返り、真っ直ぐに私の目を見た。
「お前のおかげだ、クラウディア。足元の隙間に気づいてくれなきゃ、外側から冷気が回って全滅してた。……助かった」
ぶっきらぼうで、けれど心の底からの感謝だった。
「二人で守ったんです。マティアスさんが諦めなかったからですよ」
朝の光を浴びながら、私たちは顔を見合わせて小さく笑った。
凍てつく夜を越えて、苗木たちだけでなく、私たちの間の見えない壁もまた静かに解け始めていた。頼り、頼られる関係になったのだという確かな手応えが、かじかんだ私の指先をじんわりと温めていた。




