第3話
翌朝、板壁の隙間から差し込む青白い光と寒さで目が覚めた。
マティアスから借りた軍用毛布は厚手で頼もしかったけれど、冷え切った作業小屋の板敷きの冷気は、藁を通り抜けて腰のあたりまで這い上がってきていた。すでに小屋の中に彼の姿はなく、炉の灰がかすかにぬくもりを残しているだけだった。
起き上がって足元を見ると、泥まみれの革靴は乾いてひび割れ、底の破れ目から汚れた靴下が覗いていた。
天気が回復したら好きにしろ、と昨夜マティアスは言った。けれど、この靴で外に出てどこへ行けというのだろう。手持ちの小銭はわずかで、頼るべき親類も知人もいない。このまま町へ戻っても行き倒れるだけだ。
生きるためには、ここに置いてもらうしかない。
貴族の令嬢だった過去は捨てたのだ。ただ同然で泊めてもらい、朝ごはんまで恵んでもらおうなんて甘えは通用しない。追い出される前に、役に立つところを見せなければならなかった。
「働かなきゃ。何でもいいから、できることを探さないと……!」
私は冷たい井戸水で顔を洗い、髪を整えて、温室の重い扉を押し開けた。
温室の中では、すでにマティアスが働いていた。
朝日を浴びながら、大きな木樽から腐葉土を両手で抱え上げ、苗床の棚へ運んでは平らに均している。黙々と腕を動かす姿は近寄りがたいほど険しかったけれど、私は意を決して声をかけた。
「おはようございます、マティアスさん!」
彼の手がぴたりと止まり、無愛想な顔が振り返った。
「……なんだ。まだいたのか」
「昨日のお礼をさせてください。力仕事は無理でも、掃除や水汲みならできます。ここに置いてください。何でも働きますから!」
必死で頭を下げると、マティアスは手にした木べらで温室の隅を指した。
「邪魔をするな。通路の枯れ葉を集めて、裏の堆肥場へ運べ。箒と箕はそこの樽の脇だ」
「はい! ありがとうございます!」
断られなかった安堵を胸に、私は竹箒を手に取って掃除を始めた。
けれど、現実は甘くなかった。
屋敷の庭園を眺めていた頃は掃除など簡単だと思っていたのに、濡れた土の上にへばりついた枯れ葉は驚くほど重い。腰をかがめて箒を擦りつけるうちに、早くも腰と腕が悲鳴を上げ始めた。
何より酷かったのは足元だった。
ひび割れた革靴の底から冷たい泥水が容赦なく染み込み、破れ目から入り込んだ小石が足裏を苛む。かかとの靴擦れが一歩ごとに擦れて激痛が走った。それでも、泣き言を言えば門の外につまみ出されると思い、私は冷や汗を流しながら堆肥場まで何度も往復した。
昼前になって通路を掃き終えた時、苗床の木箱に挿された木札が目に入った。
品種名や仕入れ時期を記す杉の木切れなのだが、雨風で文字がかすれ、泥にまみれて判読不能になっていた。よく見ると、文字というよりナイフでつけた傷のような殴り書きばかりで、マティアス自身が識別するための記号のようだった。
作業台の脇を見ると、干からびかけたインク壺と羽ペン、新しい木札の束が無造作に置かれている。
私は作業台へ駆け寄り、ペンの先をナイフで整えてからマティアスに声をかけた。
「あの、マティアスさん。私、文字が書けます。この木札、書き直してもいいですか? 苗の名前を教えてくだされば、きれいに整理できます!」
マティアスは作業の手を止め、訝しげに私を見た。
「文字が書けるのか」
「はい。読み書きと簡単な計算ならできます!」
かつて家庭教師から習った本草学の知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。マティアスは少しの間黙り込んでいたが、やがて短く告げた。
「あっちの棚から順に、冬咲きの姫木犀、耐寒性の山桜、赤実の柊だ。全部で四十本。札の角に、入れた月日を二本線で書いとけ」
「わかりました!」
私は作業台に向かい、木肌の目に沿って丁寧に文字を刻んだ。正式な名称と日付を読みやすく書き込み、油布で軽く表面を拭いてから、指示された鉢へ一本ずつ挿していく。
戻ってきたマティアスが、整然と並んだ木札を太い指先でそっと撫でた。
「……悪くない。遠くからでも見やすい」
それだけの言葉だったけれど、私の胸の中にぱっと灯りが点ったようになった。
「本当ですか!? よかった……!」
思わず笑みをこぼすと、マティアスは居心地悪そうに視線を逸らし、自分の作業に戻っていった。
だが、安堵した瞬間、かかとに焼けるような激痛が走った。
「つっ……!」
立ち上がろうとしてバランスを崩し、敷石の上に膝をついてしまう。
「おい」
「なんでもありません、つまずいただけです!」
慌てて立ち上がろうとしたけれど、破れた革靴の踵から血が滲み、靴下に赤い染みが広がっているのを隠しきれなかった。
マティアスは眉根を寄せ、大股に歩み寄ってくると私の前にしゃがみ込んだ。
「見せろ」
有無を言わさぬ声で私の足首を掴み、ボロボロの靴を引き抜いた。
かかとの皮はべろりと剥け、泥水が入って赤く腫れ上がっていた。足指も寒さで紫色に変色している。情けなくて顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「泥水が入って化膿しかけてる。こんな靴で土仕事ができるか」
吐き捨てるように言うと、彼は私を作業台の丸太椅子へ抱え上げるようにして座らせた。
それから井戸水で足を洗い流し、清潔な布で水気を拭き取って、棚から出した苦い匂いの軟膏を丁寧に塗り込んでくれた。あまりの痛さに「ううっ」と声が漏れる。
「痛くても我慢しろ。雑菌が入ったら足ごと腐るぞ」
布切れでしっかりと傷を巻いた後、マティアスは底の剥がれた私の靴を放り出した。
「今日はもう納屋に入れ。動くな」
「でも、まだ仕事が……」
「使い物にならん足でうろつかれる方が邪魔だ」
言い返す言葉もなく、私は肩を落として痛む足を引きずりながら納屋へ戻った。
少し文字が書けたからといって、土の仕事では足手まといにしかならない。明日の朝には本当に追い出されるかもしれない。冷え込む藁の中で毛布を被り、悔しさと情けなさに唇を噛み締めた。
翌朝、重い足取りで納屋の扉を開けた私は、足元を見て息を呑んだ。
板戸の前に、見慣れない一足の木靴が置かれていたのだ。
ポプラの丸太をくり抜いて作られた、厚底の素朴な木靴。飾り気はないけれど、私の足の形に合わせて、かかとの当たる内側が滑らかに削り直されていた。
拾い上げると、ずっしりとした重みがある。指で触れてみると、内側に羊毛の脂が塗り込まれていてしっとりと柔らかく、木のささくれひとつ残っていなかった。
「……これ」
驚いていると、作業小屋からマティアスが出てきた。
その手を見て、私は胸を突かれた。太い指先には生々しい木屑がびっしりとこびりつき、前掛けにも細かな削り節が散らばっていたのだ。まるで、夜通し木を削り続けていたかのように。
「履いてみろ」
マティアスはぶっきらぼうに言った。
「これ、マティアスさんが……?」
「サイズが合うか分からん。削り直すなら今のうちだ」
包帯を巻いた足を木靴へ滑り込ませると、すぽりと吸い込まれるように収まった。
驚くほどぴったりだった。厚い木底が地面の冷気を完全に遮断し、滑らかな内側が傷口を圧迫することなく包み込んでくれる。立ち上がって踏み出しても、痛みが走らない。
「ぴったりです……! 全然痛くありません!」
嬉しさのあまり飛び跳ねそうになると、マティアスが慌てて手を出した。
「跳ねるな、木靴は重いから挫くぞ」
「はい! でも、本当にすごいです。冷たくないし、痛くない……!」
顔を上げた時、目の前にあった彼の逞しい手の甲に、白く盛り上がった太い古傷が走っているのが見えた。枝で引っ掻いたような浅い傷ではない。鋭利な刃物で深く断ち切られたような、生々しい傷跡だった。
庭師の仕事だけで、こんな傷ができるのだろうか。
一瞬そう思ったけれど、それ以上に胸を満たしたのは、この傷だらけの手が一晩中ナイフを振るって私の靴を作ってくれたという事実だった。
「ありがとうございます、マティアスさん。大切に履きます!」
深く頭を下げると、マティアスは居心地悪そうにそっぽを向いた。
「……礼を言う暇があるなら、裏の苗床へ行け。札の続きがまだ残ってる」
「はい、すぐに行きます!」
重たい木靴をカツン、カツンと鳴らしながら、私は温室へ駆け出した。
頼もしい靴底の重みを感じながら、私は初めて、自分の足でこの泥の上に立っているのだという確かな喜びを噛み締めていた。




