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とある没落令嬢の、慎ましくも愛されすぎた半生の秘密  作者: 九葉(くずは)


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2/15

第2話

 四十六年前のあの冬の寒さを、私は生涯忘れることができない。


 父が獄死したという知らせを受けてから王都を逃げ出すまでのことは、今でも記憶のところどころが真っ白に抜け落ちている。横領だの背任だの、身に覚えのない罪状を並べ立てられて家財はすべて差し押さえられ、屋敷の門には無慈悲な封鎖の板が打ち付けられた。親類たちはいっせいに手のひらを返して逃げ去り、残された私は、下働きの老婆が涙ながらに握らせてくれたわずかな銅貨と、着の身着のままで街を放り出されたのだ。


 頼るあては、生前の父が懇意にしていたというロストックの古い商人だけだった。その人の名前と町の場所だけを頼りに、乗り合い馬車を乗り継ぎ、最後は歩いてこの町に辿り着いた。


 けれど、町の広場で所在を尋ねた私に、パン屋の親父さんが返した言葉は残酷なものだった。


「ああ、その旦那なら二年前の冬に亡くなったよ。店も畳んで、息子さんたちは王都へ引き払っちまった」


 その場に崩れ落ちそうになる膝を必死で叱咤して、広場を離れた。


 所持金はとっくに底をつきかけていた。薄っぺらい革靴の底には穴が開き、歩くたびに冷たい泥水が靴下を濡らして足先から感覚を奪っていく。夕暮れが近づくにつれて灰色の雲が空を覆い、雨に雪が混じった霙が吹き付け始めた。


 凍死する。このままどこかの軒下に座り込んだら、明日の朝には冷たくなっている。


 恐怖に追われるようにして町外れへ足を向けた私の目に留まったのが、街道から少し外れた斜面に建つ、古びたガラス張りの温室だった。


 木枠はところどころ歪み、何枚かのガラスにはひびが入って油紙で塞がれている。生垣も半分枯れかけていて、人の気配がない。廃屋だと思った。誰の持ち物か分からないけれど、せめてこの霙をしのげる場所に入らなければ、本当に命が危なかった。


 私は錆びついた真鍮の取っ手を引き、きしむ扉の隙間から滑り込むように中へ入った。


 温室の中は外の風が遮られていて、湿った腐葉土と発酵した藁のむせ返るような匂いが立ち込めていた。割れたガラスから雨漏りがぽたぽたと落ちる音だけが響いている。


「よかった……風がないだけでも、全然違う」


 安堵のあまり、濡れた土間の敷石の上にへたり込んだ。かじかんだ指先を息で温めようとした、まさにその時だった。


「誰だ」


 奥の暗がりから、低く濁った声が降ってきた。


 心臓が喉から飛び出るかと思った。悲鳴すら上げられずに飛び起きようとして、痺れた足がもつれて泥の上にみっともなく転がった。


 苗床の棚の陰から姿を現したのは、泥だらけの革の前掛けを着けた、体格のいい男だった。二十代半ばか後半くらいだろうか。手にはずっしりと重そうな鉄の鍬を握りしめていて、伸び放題の無精髭の奥から、鋭い眼光が私を射抜いていた。


「ひっ……!」


 泥棒と間違われたのだと直感した。こんな人気のない場所で、得体の知れない大男に鍬で殴り殺されても誰にも気づかれない。私は反射的に両手を頭の上に掲げ、必死に声を絞り出した。


「ごめんなさい! 泥棒じゃありません! あの、霙があまりに酷くて、風をしのぎたくて……勝手に入って本当にごめんなさい! すぐに出ていきますから!」


 恐怖で歯の根が合わず、言葉が震えて途切れ途切れになる。立ち上がって逃げようとしたけれど、冷え切った足はまるで他人の肉のように重く、言うことを聞いてくれない。敷石の上で無様に這いずり回る私を、男は鍬を持ったまま無言で見下ろしていた。


 殺される、と思った。


 けれど、男は鍬を振り上げるどころか、地面にカツンと立てると、深く息を吐き出した。


「……立てるか」


「えっ」


「動けないなら、引きずっていくぞ」


 男は私の返事を待たずに鍬を壁に立てかけると、私の二の腕を無造作に掴んで軽々と立たせた。手のひらが恐ろしく硬く、指の関節が木の節のように太かった。乱暴ではあったけれど、痛めつけるような力はこもっていなかった。


「あ、あの、許してください、何もしませんから……!」


「うるさい。舌を噛むぞ。ついてこい」


 男は私を温室の奥にある小さな板戸へと引っ張っていった。そこは温室に隣接した、三畳ほどの狭い作業小屋だった。


 小屋の中には、レンガを積んだ簡素な炉があり、炭の残火がかすかに赤く燻っていた。壁には大小の鋏や鋸が整然と掛けられ、部屋の隅にはブナ材の道具箱がどっしりと置かれている。


 男は私を作業台の丸太椅子に腰掛けさせると、炉に枯れ枝を放り込み、火吹き竹で勢いよく息を吹き込んだ。パチパチと火の粉が爆ぜ、あっという間に黄色い炎が立ち上がる。じんわりとした暖気が、冷え切っていた私の顔を撫でた。


「外套、脱げ」


 男は私の顔も見ずに、ぶっきらぼうに言った。


「え……?」


「濡れたまま火のそばにいたら、余計に冷える。脱いで渡せ。焦げないところに掛けてやる」


 その言葉の意味を理解するのに、冷えた頭は数秒を要した。


 危害を加えるつもりがないのだと分かり、私は震える指で外套の留め金を外した。雨と泥を吸ってずっしりと重くなった羊毛の外套を差し出すと、男は太い梁から吊るされた頑丈な紐へ、手際よく布地を広げて掛けてくれた。


 それから男は、炉の上に掛けられていた鉄鍋の蓋を取った。中から、もうもうと湯気が立ち上り、作業小屋の中に濃い煮汁の匂いが広がる。


 ぐう、と情けない音が私のお腹から鳴り響いた。穴があったら入りたいほど恥ずかしかったけれど、男は眉ひとつ動かさず、棚から欠けのある木椀と不格好な木の匙を取り出した。


 鉄の柄杓でよそわれた汁物が、ことりと私の前の作業台に置かれた。


「食え」


 差し出されたのは、茶色く濁ったスープだった。


 大雑把に切られた蕪と、脂の浮いた干し肉の切れ端が沈んでいるだけの、いかにも男の一人暮らしといった風情の煮込みだ。その隣に、黒っぽいライ麦パンの端切れが二つ、無造作に転がされた。


 毒が入っているかも、などと疑う余裕は微塵もなかった。


「い、いただきます……」


 かじかむ手で匙を握り、恐る恐るスープを一口すする。


 ――しょっぱい!


 思わず目を丸くしてしまった。舌が痺れるほど強烈な塩気だった。保存用の干し肉の塩抜きをろくにせずに煮込んだのだろう。蕪の皮も筋が残っていて硬く、お世辞にも上品な味とは言えなかった。王都の屋敷で料理人が作っていた、裏ごしされた滑らかなポタージュとは比べものにならなかった。


 けれど、熱かった。


 塩辛い煮汁が喉を滑り落ち、胃袋に届いた瞬間、冷え固まっていた内臓が内側からじわじわと解けていくのが分かった。指先へ、足先へと温かい血が通っていく実感が全身を満たしていく。硬いパンをスープに浸してふやかし、夢中で口に運んだ。噛み締めるたびに、素朴な麦の香りと肉の脂が口いっぱいに広がる。


 気がついたら、ぽたぽたと私の目から涙がこぼれ落ちて、木椀のスープに波紋を作っていた。


 恥ずかしいのに、止まらなかった。


 父を失ってからずっと、誰にも弱音を吐けず、泣くことすら許されないまま走ってきた張り詰めた糸が、この塩辛い一杯の汁物の前で、音を立てて切れてしまったのだ。


「……おい。そんなにまずいか」


 男が心底不審そうに眉をひそめて、私を見ていた。


「い、いいえ……! 違います、すごく……すごく、温かいです……!」


 私は鼻をすすりながら、匙を動かし続けた。最後の一滴まで汁を飲み干し、お椀の底をパンで拭って口に放り込むと、ようやく人心地がついた。生きている、と実感した。


 男は自分の分のパンを固いまま齧りながら、私の足元と手元へ視線を落としていた。


 泥だらけで底の剥がれかけた靴と、泥を拭った後の私の白すぎる手。そして、私が無意識にポケットの中から握りしめていた、父の形見である小さな銀のペンの蓋。彼はそれらをじっと見つめていたが、何も言わなかった。どこから来たのかも、なぜそんな身なりをしているのかも、何ひとつ問いただしてこない。


「……名前は」


 パンを飲み込んだ男が、ぽつりと尋ねてきた。


「クラウディア、です」


 家名は名乗らなかった。名乗れるはずもなかった。


「そうか」


 男はそれだけ言うと、立ち上がって炉の火を少し弱めた。


「俺はマティアスだ。この温室と苗床を借りて、庭木の苗を売ってる」


 それから彼は小屋の隅を指さした。そこには乾燥した藁と、厚手の灰色の毛布が積まれていた。


「今夜は外に出るな。霙が雪に変わる。行く当てがないなら、あの藁の上で寝ろ。明日の朝、天気が回復したら好きにしろ」


「えっ、でも……見ず知らずの私を泊めるなんて」


「行き倒れを庭で死なれたら、春の苗の縁起が悪い」


 それだけぶっきらぼうに吐き捨てると、マティアスは自分の作業用具を片付け始め、二度と私の方を見ようとはしなかった。


 私は貸してもらった毛布を抱きしめ、藁の山の上に腰を下ろした。ちくちくと藁が肌に触れたけれど、敷石の冷たさに比べれば天国のような心地よさだった。


 作業台に向かって黙々と鋏を研ぎ始めたマティアスの広い背中を、炉の灯りがぼんやりと照らしている。


 あの時、彼がどうして私を追い出さなかったのか。なぜ名乗らない私の素性を疑いもせず、屋根と火を分け与えてくれたのか。


 七十歳になった今の私には、その理由が痛いほどよく分かる。


 道具箱の底の手紙にあった、『俺は最初から、お前がどこの誰かを知っていた』という言葉。


 あの日、泥だらけの私を一目見たときから、そして私が名乗ったその瞬間に、二十七歳のマティアスはすべてを悟っていたのだ。


 そんなこととは夢にも思わず、二十四歳の私は、毛布に染みついた土と男物の汗の匂いに包まれながら、四十余年続くことになる暮らしの、最初の夜を迎えていた。

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