第1話
夫のマティアスが逝ってから、半月が過ぎた。
春の兆しが見え始めた頃から空咳が抜けなくなり、秋口には温室に立つ時間が目に見えて減っていた。頑丈だけが取り柄だと自分で言っていた人だったけれど、冬の初めの冷え込みが厳しくなった朝、布団の中で息を引き取った。享年七十三。苦しむ様子もなく、ただ枯れ葉が土に落ちるような、あまりにも静かな幕引きだった。
町の人たちに手伝ってもらって見送りを済ませ、お悔やみに来てくれた近所の人たちにお茶を出して、ひと通りの慌ただしさが去ったあと、家の中は途方もなく静かになった。
静かなのは昔からだ。マティアスはとにかく口数の少ない男だったし、私たちが暮らすこのロストックの町外れは、宿場を行き交う馬車の車輪の音が遠くに響くくらいで、もともと鳥の声と風の音ばかりが聞こえる場所だ。それでも、四十余年も二人で暮らしてきた平屋に自分一人しかいないというのは、どうにも落ち着かない。部屋の隅々に夫の気配が染みついているのに、呼んでも返事がないのだから当たり前だ。
寂しさに呑まれて膝を抱えていても、お腹は空くし、冬の寒さは骨に染みる。何より、春が来れば温室の苗床を動かさなければならない。私が座り込んでいたら、マティアスが育てていた苗木がみんな凍えてしまう。
「さてと。まずは道具の手入れからね」
私は台所で湯を沸かして冷めたお茶を飲み干すと、厚手のウールのショールを肩に巻き直し、庭の隅にある作業小屋へ向かった。
扉を開けると、乾いた土と松脂、それから油の混ざった匂いが鼻先をくすぐった。マティアスが毎日吸い込んでいた匂いだ。小屋の中は外よりも一段と冷え切っていて、吐く息が白く広がる。
作業台の上には、彼が最後に使ったきりになっている剪定鋏が置かれていた。刃渡りの長い大鋏と、小枝を払う小鋏が二挺。使い込まれて柄の木肌は黒光りし、鉄の刃先にはところどころ樹液の渋がこびりついている。鉄というものは正直なもので、持ち主の手入れが途切れると、ほんの二週間足らずでも薄い赤錆を浮かび上がらせる。
「もう、刃を拭きもしないで寝込んじゃうんだから」
独り言をこぼしながら、私は作業台の引き出しから油布と砥石を取り出した。
マティアスが生前、耳にタコができるほど繰り返していた手順を思い出す。まずは乾いた布で土と木の屑を払い落とし、こびりついた樹液を銅のへらでこそぎ落とす。刃の噛み合わせに緩みがないか確かめてから、砥石に少しだけ水を垂らし、角度を一定に保って滑らせる。刃先が鈍い銀色の輝きを取り戻したら、最後に猪の脂を引いた布で念入りに拭き上げるのだ。
見よう見まねで始めたはずの手入れも、四十四年も付き合っていれば自然と腕に馴染んでいる。シャッ、シャッ、と砥石が鉄を削る規則正しい音だけが、薄暗い小屋の中に響いた。
小さな鋏の手入れを終え、大鋏の刃を油布で拭きながら、私は作業台の下に視線を落とした。
そこには、マティアスが若い頃からずっと使っていた、ブナ材の頑丈な道具箱が収まっている。角に真鍮の金具が打ち込まれたその箱は、彼が昔、兵隊として軍にいた頃から持ち歩いていたものだと聞いていた。除隊してこの町で庭師を始めた時も、私と所帯を持った時も、ずっと彼の足元にあった箱だ。
春になれば、古い麻布を敷き直して、播種用の小さなヘラや紐を整理しなければならない。私は大鋏を作業台に置き、腰をかがめて重い道具箱を引きずり出した。
箱の中には、太枝切りの鋸、接ぎ木用の薄刃ナイフ、皮の手袋、麻紐の束が几帳面に並んでいる。どれも使い古されてはいるが、刃こぼれひとつない。本当に、こういうところだけは几帳面な人だったのだ。
底に敷かれていた古い麻布を持ち上げて、埃を払おうとした時だった。
「あれ……?」
底板の端が、少しだけ浮き上がっているのが指先に触れた。
壊れたのかと思って指先を引っ掛けると、薄い板がことりと音を立てて外れた。二重底になっていたのだ。四十余年間、何度もこの箱を見ていたはずなのに、底板が外れるなんて一度も知らなかった。
隙間の中に収まっていたのは、油紙で幾重にも厳重に包まれた、平たい革の包みだった。
手のひらに乗せると、革はずいぶんと硬くなっていたが、湿気を吸わないよう丁寧に蜜蝋が擦り込まれている。中身は何だろう。まさか、へそくりかしら。だとしたら、ずいぶん気の長い隠し方だ。私は少し苦笑しながら、硬くなった革紐をほどいた。
包みの中から現れたのは、二つ折りにされた二種類の紙だった。
一枚は、驚くほど上等で分厚い羊皮紙だった。手触りだけで、平民の使う安紙とはまるで違うことが分かる。端の方に押されているのは、青と金の二色で彩られた精緻な紋章の印章――王家のものだ。なぜこんな寒村の庭師の道具箱に、王家の印が入った公的な文書があるのだろう。横領だの不正だので実家がお取り潰しになった二十四歳のあの日以来、二度と見ることのないはずだった類の書類に、心臓がどくりと嫌な音を立てた。
戦功証明、と表題には書かれているようだった。しかし、それ以上に私の目を奪ったのは、その羊皮紙に添えられていた、もう一枚の紙だった。
どこにでもある、ざらざらとした安価な紙。
そこに並んでいたのは、見紛うはずもない、あの角ばって不器用なインクの文字だった。
文字を書くのが苦手で、苗木の出荷伝票に数字と品種名を書き込むだけで「指が攣る」と顔をしかめていた夫の、あの筆跡。
便箋の冒頭に、ぽつんと私の名前が書かれていた。 『クラウディアへ。
お前にこれを読ませる時は、俺が先に死んだ時だ。驚かせてすまない。
俺は最初から、お前がどこの誰かを知っていた』 「えっ……!?」
思わず声が出た。
知っていた?
何を? 私がどこの誰かって、そんなの――。
動悸が早くなり、手の中で紙が小さく震えた。
私は元伯爵令嬢だ。けれど、父が罪を着せられて牢の中で亡くなり、家がお取り潰しになって着の身着のままで王都を逃げ出した時、私は過去の身分を捨てた。貴族だった頃の名前も、贅沢な暮らしも全部捨てて、ただ生き延びるためにこのロストックの町へ流れ着いたのだ。
マティアスには、実家が没落して行く当てがないことしか話していなかった。彼もまた、私の生い立ちについて詮索するようなことは一度もなかった。ただ「ここにいろ」と言って納屋の片隅を空けてくれ、寒波の夜には黙って薪を足してくれ、やがて二人で所帯を持って、泥だらけになって四十余年を生きてきたはずだった。
それなのに、知っていたですって?
手紙の続きに目を走らせようとして、文字が滲んで読めなくなった。涙が出たのではない。あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
ずるい。
四十余年も一緒に暮らして、毎日同じ釜のスープを飲んで、私の髪を梳かすための櫛を不器用に削ってくれたあの男が。
病床で弱り切って、私の手を握りながら「苦労ばかりさせたな」と申し訳なさそうに言っていたあの人が。
私に隠し事をしていたなんて。
「どういうことなのよ、マティアス……!」
誰もいない小屋の中で、私は小さく抗議の声を上げた。怒りというよりは、胸をいきなり素手で掴まれたような、酷い寂しさと混乱だった。
なぜ話してくれなかったのだろう。
あの無口な男は、いったいどんな顔をして、どんな思いで、私の隣で土を掘り続けていたのだろう。
道具箱の底の手紙を見つめているうちに、私の記憶は、四十六年前のあの凍えるような冬の日に引き戻されていた。
雨と泥にまみれ、破れた靴で立ち尽くしていた二十四歳の私と、不愛想に湯気の立つ鍋を差し出してきた、二十七歳のあの男の姿へ。




