第9話 並べば、あんたにも出す
その夜は、角猪の串焼きがよく出ていた。
九月も半ばを過ぎると、日が落ちてからの風に秋の輪郭が混ざる。夜が冷え始めると、炭火の匂いは遠くまで届く。タレは二度づけ、仕上げに山椒をひと振り。焼き上がるそばから串立てが空いていく。
列は途切れなかった。B級の兄さんは今日も律儀に最後尾に並び、背広の二人連れは炊き込み飯の残りを賭けてじゃんけんをして、トメが茶を回して歩く。久保田の帳面には、今日のまとめ買いの数字が几帳面な字で並んでいた。
いい夜だった。途中までは。
閉店の一時間前、駅前に黒塗りの車が停まった。
機構の公用車だ。降りてきた男は列を一瞥して、並ばず、まっすぐカウンターの正面に立った。
三週間ぶりに見る顔だった。会議室の長机の向こうで、俺の十年を三行で読み上げた男。テレビじゃ毎週見る顔だが、生で見ると、やはり圧が違う。列の会話が、駅に近い側から順に消えていった。トメだけが、茶を注ぐ手を止めなかった。
「真田幸雄」
「注文なら列の後ろだ。今なら十五分待ちになる」
「機構第一討伐部隊長、鏑木だ。職務で来た」
言い直しもしない。鏑木は懐から書面を出して、カウンターに置いた。
「ダンジョン産素材の無許可提供。規約百二十条違反の疑いがある。十日以内に営業実態の審査を行う。違反が確定すれば摘発、営業停止だ」
串を返す手は止めなかった。焼き上がりは待ってくれない。書面の判子だけ、ちらりと見た。支部長印。手回しのいいことだ。
「食中毒でも出たか、うちの客に」
「出ていない」
「なら、誰かが困ってるのか。この屋台で」
「制度の外で素材が流通している。それ自体が問題だ。個々の結果の問題ではない」
「結果は問題じゃない、か」
炭の上で脂がひとつ爆ぜた。結果より枠。戦果より等級。あの会議室から一歩も動いていない理屈だ。理屈の中身より、この男がわざわざ夜の桜台まで出向いてきたことの方に、俺は少しだけ引っかかっていた。部隊長ってのは、屋台の書面を届ける役職じゃない。
「審査ってのは、何を見る」
「仕入れ、下処理、提供の全工程。素材の出所の記録。衛生管理の記録。記録がなければ、実態なしと見なす」
「記録、ね」
レシートの缶が頭をよぎったが、顔には出さなかった。焼けた串を三本、皿に移して、列の先頭に出す。それから鏑木に向き直った。
「分かった。審査は受ける。うちは、審査で落ちるような仕事はしてねえ」
「ならば結構だ」
鏑木は書面を残して踵を返しかけ、一度だけ止まった。目線が、カウンターの上——湯気の立つ寸胴と、炭火の串を順になぞる。
「等級外の人間の店に、探索者が列を作る。面白い光景だと思ってな」
「そうか。並べば、あんたにも出す」
「戦果で語れ。湯気で語るな」
公用車のドアが閉まって、赤いテールランプが駅前から消えた。炭の上で、次の串が静かに焼けていた。
列が、ざわめきを取り戻すのに少しかかった。
最初に口を開いたのは、槍持ちだった。
「無許可って、なんだよ。許可の出し方がねえって、こないだ役所の人が言ってたじゃねえかよ」
「機構の連中、現場には来ないくせに」と誰かが続け、B級の兄さんが「俺、支部に同期がいる。ちょっと探り入れる」と物騒な親切を言い出し、背広が「署名とか要ります?」と腰を浮かせた。
「あんたら、飯が冷める」
ひとまず全員を椀に戻した。憤ってくれるのはありがたい。ありがたいが、怒りってのは腹に入れて煮込むもんだ。生で振り回すと人を切る。
「なんなんすか、あれ」
久保田が帳面を握りしめていた。
「摘発って、大将、店閉めさせられるんすか。俺らの飯、どうなるんすか」
「潰させないよ」
トメが茶を注ぎながら言った。声は静かだが、湯呑みを置く音が硬かった。
「ああいう手合いはね、店を潰すのに刃物なんか使わないんだ。紙で潰すんだよ。あたしは三年前、紙に潰された店を何軒も見た」
そこへ、自転車が滑り込んできた。小野寺だった。スーツのまま、息を切らしている。
「審査通告、来ましたね。支部で決裁が回ってるのを見て、急いで」
「ああ。十日以内だそうだ」
「十日あれば十分です」
小野寺は即答した。それから列の客と、トメと、久保田の顔を順に見て、手帳を開いた。
「特例許可の申請、明日の朝一で出します。審査を、向こうの土俵じゃなくてこっちの土俵にします。摘発の審査なら向こうが基準を握りますが、特例許可の審査なら、基準は規約に書いてある三つだけ。衛生、安全、有益性。全部、こっちで証明を積める項目です」
「同じ審査でも、土俵が変わるのか」
「変わります。紙の世界の合戦は、どの紙の上で戦うかが先に決まるんです」
トメが、ほう、という顔で小野寺を見た。品定めの目だった。それから黙って、湯呑みを一つ、小野寺の前に置いた。
「真田さん、今夜、閉店後に三十分ください」
「飯付きでよけりゃ」
「……交渉成立です」
客を全部見送って、火を落とす前に、売れ残りの串を一本、自分用に焼いた。
向こうじゃ、戦の前の晩に自分の分を一本焼くのが癖だった。験担ぎってほどのもんでもない。明日も竈の前に立つ、と手前の腹に申し渡すだけの儀式だ。
十年やって、こっちに帰って、もう要らなくなったと思っていた癖が、今夜は勝手に手に戻ってきた。審査だの摘発だの、紙の戦でも、戦は戦らしい。
山椒を振って、立ったまま食った。うまかった。うちの串は、誰が来ようとうまい。それを十日で紙に写す。それだけの話だ。
◇
同じ夜、機構県支部。
当直室の蛍光灯の下で、決裁待ちの書類が二枚、机に並んでいた。
第一討伐部隊の週次報告書が、その一枚だった。定例遠征、討伐数は目標超過。ただし隊員二名が体調不良で途中離脱。携行食の連続摂取による食欲不振と胃腸炎、隊内の士気低下に言及あり——報告書のその欄に、鏑木は赤で一本線を引いた。
「気合いの問題だ」
もう一枚、観測班からの上申が重ねてあった。桜台ダンジョン、魔素活性値、三年ぶりの上昇傾向。氾濫の可能性を問う一文に、観測班長自身が「判断材料不足」と付記している。
鏑木は二枚まとめて決裁箱へ落とした。箱の底で、紙は音もなく重なった。
等級外の男の屋台と、目を覚ましかけた郊外の穴。
そのどちらも、機構はまだ、本気にしていなかった。




