第10話 但し書きの女
翌朝の機構県支部、三階の廊下。
企画管理課長の柴田は、稟議書の綴りを小脇に、決裁室へ急いでいた。表題は「桜台駅前屋台に対する営業停止措置(先行執行)」。審査は十日後まで待たなくていい、疑いの段階で止められる。そう読める条文を、昨夜のうちに探し出してあった。討伐部隊長の通告に、事務方が先回りして花を添える。出世というのは、そういう機微の積み重ねでできている。
廊下の角で、その足が止まった。
渉外課の小野寺が、壁を背にして立っていた。手には、付箋だらけの規約集。
「おはようございます、課長。決裁室でしたら、その稟議、無駄足になります」
「無駄足、とは」
「規約第百二十条の適用には、同第十四条が優先します。読み上げますね。『ダンジョン災害からの地域復興に資すると市が認定した事業については、審査の完了を待たずこれを停止してはならない。但し、緊急の危険がある場合を除く』。桜台の復興屋台区画は、市の認定事業です。緊急の危険を立証する食中毒報告は、ゼロ件です」
柴田の眼鏡が、じり、と下がった。
「第十四条は、復興事業の保護規定でしょう。屋台一台に適用するのは」
「屋台一台、とは書いてありません。認定事業、と書いてあります。認定番号、読み上げましょうか」
「……規則ですので、私は手続きを」
「ええ、規則ですので」
小野寺は規約集を胸の前で閉じた。
「規則どおり、審査で判断していただきます。十日後に、正々堂々と。それから課長、先行執行の稟議を起案した事実は、私、記録しておきますね。規則ですので」
自分の口癖を返された柴田は、口を開けて、閉じた。
稟議書の綴りは、その日の決裁箱に入らなかった。渉外課とは名ばかりの、予算最下位の部署の女に、廊下一つで止められた。その事実が柴田の中でどう発酵するかは、また別の話だ。
◇
夕方、屋台に現れた小野寺は、両腕に書類の束を抱えていた。
「特例許可の申請、受理されました。様式、本当に埃をかぶってました」
カウンターに並べられたのは、申請書の控えと、これから作る書類の一覧だった。仕入管理台帳。衛生管理計画書。下処理工程表。提供実績報告書。文字を眺めているだけで、湯気の一つも立たない紙の列だ。
「これを、十日で」
「はい。審査の日までに、実態を紙にします」
ペンを渡されて、俺は申請者欄の前で三分固まった。住所と名前は書けた。その先の「事業概要」の欄で、手が止まった。飯を作って出している。それ以外に何と書けというのか。
小野寺が横から覗いて、俺の手からそっとペンを抜いた。
「私が書きます。真田さんは、証明できる事実をください」
「事実」
「ええ。たとえば、下処理の工程。角猪の血抜き、何分やってますか」
「肉と水温による。今の時季なら吊るして四十分、氷水で締めて二十分」
「彷徨茸の毒抜きは」
「塩水に半刻、そのあと湯で三十数える。塩が先で湯が後。逆は効かない」
「肉の保管は」
「氷と一緒に箱でひと晩。使う分だけ朝に切る。切り置きは昼までに使い切る。残ったら賄いで俺が食う。客には出さん」
「その線引きの理由は」
「切り口ってのは、時間が経つほど水が出て、水が出た肉は火を入れても戻らない。まずい飯を出すくらいなら、俺の腹に入れた方が店のためだ」
聞き取りの間も、客は来る。俺は丼を三つ焼きながら答え、小野寺は列を避けてカウンターの端に陣取り、湯気の届かない位置で紙を守った。書類ってのは、飯の湯気に当てると波打つらしい。ひとつ利口になった。
「提供数は、この前の聞き取りの分に足していきます。今日から毎晩、閉店後に数字だけください。私が台帳の形にします」
「そっちの方が、俺が書くより早いな」
「早さの問題じゃなく、続く形の問題です。審査は『続けられる仕組みか』も見ますから」
小野寺のペンが、俺が喋る端から紙を埋めていく。喋った言葉が「作業標準」だの「保管温度」だのという四角い言葉に変わっていくのは、妙な見物だった。俺の手癖が、紙の上で制度の言葉になっていく。
「真田さん、これ」
書きながら、小野寺がぽつりと言った。
「工程が全部、数字で答えられるんですね。感覚でやってる人は、訊いても『いい感じになるまで』としか答えられないんです。あなたの中には、最初から台帳がある。書き起こせば、審査に耐えます」
「十年、毎日つけてた帳面だからな。紙じゃなかっただけで」
◇
閉店後、カウンターに残ったのは、俺と小野寺、トメ、久保田の四人だった。
夜食に、握り飯と角猪汁を出した。作戦会議に空きっ腹は毒だ。話が悲観に寄る。
「審査で証明することは三つです」
小野寺が、汁の椀を両手で包んだまま言った。
「一つ、衛生。工程表と、毎日の記録。二つ、安全。素材の下処理と、これまでの提供で健康被害ゼロの実績。三つ、地域への有益性。客数、買い取りが探索者の収入になっている事実、駅前に人が戻り始めている事実」
「三つ目は、俺が数字出せるっす」
久保田が帳面を掲げた。番頭の顔になっている。
「買い取り台帳、初日からつけてるんで。誰にいくら払ったか、全部」
「素晴らしい。それ、そのまま証拠資料です」
「あと、うちの班長も証言するって言ってました。角猪の売り先ができてから、装備を新調できた奴が三人いるって。あ、あと薬局のおっちゃんも、駅のこっち側に人が戻ってきたって」
「全部いただきます。証言は多いほど効きます」
「衛生の記録は、明日からあたしが見てやるよ」
トメが湯呑みを置いた。
「保健所ってのはね、毎日つけた紙しか信じないんだ。あたしが五十年つけてきた通りのやり方を仕込む。三日で覚えな」
「三日で覚える」
「言ったろう、兄さん。一人で回せる商売の大きさってのがある、って。超えた時にどうするか考えときな、って。ずいぶん早く超えたもんだね」
予言だと言い張っていた婆さんの、これが答え合わせらしい。番頭と、記録係と、紙の戦の軍師。一人で始めた屋台のカウンターが、今夜はずいぶん狭かった。
汁をすすりながら、段取りが組み上がっていくのを聞いていた。書類は小野寺、帳面は久保田、記録はトメ。俺は飯を作って、工程を喋る。適材適所って言葉は、こういう卓のためにあるんだろう。
「あと一つ、要ります」
小野寺が指を折った。
「審査には、第三者の証言が効きます。この街で一番、味と衛生に厳しい人の証言が。——心当たり、ありますよね」
卓の視線が、ひとつの湯呑みに集まった。
トメは茶を飲み干して、鼻を鳴らした。
「……あたしかい」




