第11話 仕舞われた暖簾
三年閉めたままの店の引き戸は、音もなく開いた。
敷居に埃が溜まっていないからだ。閉めた店の戸ってのは、普通、開ける時に三年分の砂を噛む。この戸は今朝も拭かれている。
店は駅前通りの中ほどにあった。道すがら、久保田が小声で教えてくれたことがある。商店街の連中は、毎朝六時にいぐちの雨戸が開いて、七時に閉まるのを知っている。誰も理由を訊かない。訊いちゃいけない気がして三年経った、と薬局の主人が言っていたそうだ。
「入るなら早くしな。冷気が逃げる」
トメに促されて、俺と小野寺は食堂「いぐち」の中に入った。
声が出なかった。
六卓の食堂は、今日の営業を待っているとしか見えなかった。卓は拭き込まれ、丼は伏せられ、割り箸の筒まで満たされている。厨房の鍋は磨かれて壁に並び、換気扇には油の膜ひとつない。醤油の香りが、床板の奥に染みて残っていた。五十年ぶんの匂いだ。三年ごときじゃ抜けやしない。
壁の品書き札も、そのままだった。オムライス四百五十円。かき玉うどん三百八十円。値段は三年前で止まっている。一番端の札だけ裏返してあって、めくると「プリン(こどもは五十円引き)」と書いてあった。裏返した理由は、訊かなかった。
箪笥の上に、藍色の布が畳んで置いてあった。白抜きで「いぐち」。暖簾だ。洗って、糊まで利かせて、仕舞ってある。
「毎日掃除だけしてるのさ。年寄りの朝は暇なんだよ」
トメは俺の視線の先に気づいて、ふんと鼻を鳴らした。
「暖簾は、捨てそびれただけだよ」
糊の利いた捨てそびれってのを、俺は初めて見た。
用件は、審査の証人の依頼だった。トメは茶も出さずに渋った。
「あんたの腕は信用してる。けどね、機構は別だ。三年前、うちの商店会が陳情に行った時、あいつら何て言ったと思う。『被害額の算定基準に満たない』だよ。ガラス一枚の店は、被害じゃないんだとさ。潰れていく店を三年横目で見てた連中の審査に、あたしが頭を下げる筋合いはないね」
「頭を下げるのは、私です」
小野寺が、一歩前に出た。それから、深く腰を折った。
「三年前、復興担当は私でした。避難所の運営が終わったあと、商店街の支援計画を四本書いて、四本とも予算がつきませんでした。書類の上では、この商店街は『復興済み』です。人的被害なし、建物被害軽微、よって完了。私が書かされた完了報告が、その扱いの根拠になってます」
トメは黙っていた。小野寺は頭を下げたまま続けた。
「悔しいと思いながら、判子を押しました。今度は、書類で街を守らせてください。そのために、井口さんの五十年が要ります」
店の中の空気が、ゆっくり一周した。
柱の時計が鳴った。三年止まっているはずの振り子時計が、動いている。毎朝、掃除のついでにネジを巻いてきたんだろう。誰も来ない店で、時間だけが律儀に流れ続けていた。
「……顔をお上げよ」
トメの声から、棘が抜けていた。
「年寄りに頭を下げたって、汁の一杯も出やしないよ。それより役所のねえちゃん、あんた、朝から何も食ってないだろう。顔に書いてある」
そのまま三人で屋台に戻って、うどんを打つことになった。
言い出したのはトメだ。証人を引き受ける条件が「あたしの舌で、もういっぺんあんたの腕を確かめる」で、課題が、いぐちの看板だったかき玉うどんだった。
「出汁はあんたの好きにやりな。うちの味を真似しようなんて思うんじゃないよ」
麺は手打ちにした。屋台でうどんを打つ馬鹿はいないとトメに笑われたが、審査前の縁起物だ、手間は買ってでもかける。塩水で締めた生地を袋に入れて、足で踏む。踏んでは畳んで、また踏む。半刻寝かせる間に出汁を引いた。
出汁は昆布と鰹に、飴色茸の戻し汁を一筋。醤油はいぐちの厨房から持ってきた樽の残りを使わせてもらった。とろみは葛でなく片栗、卵は沸き際で止めて、細く高いところから流す。かき玉の花は湯の温度で咲き方が決まる。
「大将、それ俺も食っていいすか」
匂いにつられて久保田が首を突っ込み、トメに「あんたのは審査が終わってからだよ」と追い払われた。番頭は肩を落として帳面に戻った。
トメは湯気を嗅ぎ、レンゲで出汁だけを一口飲んで、長いこと黙った。
「……茸だね、この底にいるのは」
「ああ。飴色茸の戻し汁だ」
「うちの醤油と、喧嘩してない」
それだけ言って、あとは黙って食い終えた。丼の底に、レンゲの当たる音がした。
「合格かい」
「六十点だね。卵がひと呼吸早い。いぐちのかき玉はもう半歩、花を大きく咲かせてた」
「なら、明日もう一杯作る」
「そうしな。合格が出るまで毎日食ってやるよ。それが証人の仕事ってもんだろ」
その晩からトメは帳場の横に台を据えて、衛生記録の指南を始めた。
台紙の書式はトメの手書きだ。日付、仕込み時刻、鍋ごとの温度、器具の煮沸、手洗いの回数。五十年つけてきた形式だという。
「字が下手だね、あんた」
「読めりゃいいだろう」
「読めなきゃ紙屑だよ。数字だけは楷書で書きな」
「温度は測った時刻とセットで書く。あとから思い出して書くのは記録じゃない、作文だ。作文は保健所に一発で見抜かれるよ」
「測った時刻とセット。覚えた」
「それと、失敗も書きな。汁を一鍋落としたら、落としたと書く。失敗のない記録ほど信用されないものはないんだ」
毎晩の記録の下に、トメが小さく検印を押す。いぐちの屋号の判子だった。三年ぶりに使うと言って、朱肉を新しく買ってきていた。判を押す手つきが、店の伝票を締めていた頃のそれだった。
審査までの備えは、小野寺が指を折って数え上げた。工程表、よし。衛生記録と検印、よし。買い取り台帳、よし。健康被害ゼロの申立書、客の署名が四十七筆。提供実績は、俺が毎晩渡す数字が二週間ぶんの台帳になっている。
「あとは当日、いつもどおりに営業してください。着飾った現場は審査官に見抜かれます。いつもどおりが、一番強い」
「いつもどおりなら、得意だ」
閉店後、小野寺が支部からの封筒を開けた。
「現地審査の日程、来ました。四日後です」
「早いな」
「早めたんです、向こうが。それと、審査官の欄」
小野寺は書面をこちらに向けた。審査官二名。技術職員の名前の横に、もう一行。
企画管理課長・柴田、立会同行。
「稟議を止められた意趣返しに、自分で来る気ですよ」




