第12話 懐かしい味
審査の朝、柴田は白手袋をはめて現れた。
約束の三十分前。技術職員二人を従えて、挨拶より先に、カウンターの縁を指でなぞった。手袋の指先を目の高さに上げて、検分する。
埃は、付かない。毎朝拭いてるんだから当然だ。
「では、始めましょうか。規則ですので」
声に、楽しみにしてきた響きがあった。
審査は四時間かかった。
技術職員の質問は的を射ていた。生の素材と加熱済みの物の動線。まな板と包丁の使い分け。湯の温度管理。
「下処理は外の水場、加熱と提供は車内。生ものは車に持ち込まない。図にすると、こうです」
小野寺が用意していた見取り図を広げた。俺の作業の順路が、矢印で書き込んである。矢印は一度も交差していなかった。
「この動線、どなたの設計ですか」
「設計も何も、交差させたら千人分が回らない。向こうの炊事場の癖だ」
「癖でこれを」
技術職員が図と現場を三度見比べた。俺は喋りながら手を動かし、トメの記録台紙が言葉の裏を取り、小野寺が条文の番号を添えていく。
久保田も呼ばれていた。買い取り台帳の説明役だ。緊張で最初の一言が「く、久保田っす」になり、柴田に「氏名は結構です」と流されて赤くなったが、台帳の中身は堂々たるものだった。誰から、何を、いくらで。日付と量と状態。眼鏡の相棒仕込みの几帳面な字が、素材の出所を一行残らず証明していた。
「下処理の実演をお願いします。彷徨茸で」
毒抜きは目の前でやった。塩水に沈めて、藤色が出るまでの間に、柴田が三度、口を挟んだ。
「その塩水の濃度は、目分量では」
「海水より薄く、涙より濃く。数字が要るなら、そこの記録に毎日書いてある」
「作業着の洗濯頻度は」
「毎日だ。替えは三着」
「万一、体調不良の届け出があった場合は」
「開店以来、一件もないね」
答えたのはトメだった。検印つきの台紙の束を、音を立てて柴田の前に置く。
「五十年、保健所と付き合ってきたあたしが毎日見てる。文句があるなら、この判子に言いな」
締めは小野寺の弁論だった。
「地域への有益性を申し上げます。開業一月で、駅前の夜間人通りが市の定点計測で二・三倍。探索者十四名が素材売却で装備を更新。商店街の店舗一軒が営業補助に復帰。健康被害、苦情、いずれもゼロ件。数字はすべて添付のとおりです」
測ってきたのか、人通りまで。役所の人間が本気で数えると、湯気まで数字になるらしい。
技術職員の一人が、台紙をめくりながら、こらえきれずに言った。
「……これ、正直、うちの職員食堂より厳しい管理ですよ」
柴田の白手袋が、所在なさげに宙で止まった。粗を探しに来た男の前で、粗の方が品切れだった。
「結果は、後日、文書で。ええ、規則ですので」
帰り際の柴田の背中は、来た時より少しばかり小さく見えた。
それから三日、文書は来なかった。
期限は明日に迫っていた。屋台は変わらず回っていたが、閉店後の片付けの手が、みんな少しずつ遅い。
「支部の同期に探り入れたんだけどよ」
B級の兄さんが、雑炊の残りを箸でつつきながら言った。
「審査の報告書は上がってるらしい。中身は教えてくんなかった。ただ、企画管理課の課長が、決裁の前に『再検討』の付箋を貼ったり剥がしたりしてるって」
「往生際の悪い付箋だね」
トメが鼻で笑い、笑ったわりに、その晩の検印はいつもより強く押されていた。
結果を待つ間ってのは、火を止めた後の鍋に似ている。もう何もしようがないのに、いつまでも熱い。
その夜、閉店間際に、大男が来た。
フードを目深に被った、山みたいな図体の男だった。声は若い。
「まだ、やってますか。あったかいもの、大盛りで」
品書きも見ずにそう言った。あいにく鍋はほとんど空で、残っているのは俺の賄い用に取っておいた麦粥と、豆の煮込みだけだった。
「客に出す分は仕舞いだ。賄いの残りでよけりゃ、麦粥と豆の煮込みがある」
「それで。それがいいです」
妙な即答だった。
麦粥を椀に張り、豆の煮込みを添えて出す。干し肉と豆を、玉葱と一緒にくたくたになるまで煮ただけの、向こうの兵站隊の定番だ。品書きに載せたことは一度もない。日本の屋台で出す飯じゃないからな。
大男は一口すすって、動かなくなった。
フードの奥で、長い息の音がした。
「……懐かしい味」
「懐かしい?」
「あ、いえ。なんでもないです。おかわり、いいですか」
大盛りを三杯。豆の煮込みは鍋ごと空になった。食いっぷりだけで大体の育ちが分かる。急がず、零さず、椀に飯粒を残さない。誰かに、ちゃんと仕込まれた食い方だった。
「ここ、いつから」
「ひと月前からだ」
「ひと月で、この時間にこの匂いですか。駅を降りた時、改札まで出汁の匂いがしました」
「風向きの計算どおりだな」
「計算どおり、か」
フードの奥で、小さく笑う気配がした。笑い方まで、なぜか行儀がよかった。
勘定の時、大男の視線が、ふと棚の奥で止まった。
布に包んだ木の椀の、包みの端がのぞいていた。
視線は一瞬で戻った。気のせいと言われれば、それまでの一瞬だった。
「ごちそうさまでした。また来ます。——機構には内緒ね」
冗談めかした言い方だけ残して、大男は夜の駅前に消えた。図体のわりに、足音がしなかった。
「今の人、めちゃくちゃデカくなかったすか」
片付けに残っていた久保田が、首を伸ばした。
「あと、なんか、どっかで見たような気がするんすよね。思い出せないんすけど」
「よく食う兄ちゃんだったねえ」
トメは湯呑みを拭きながら、それだけ言った。
「気にならないんすか、婆ちゃん」
「なるよ。なるけどね、食いに来る人間の素性を詮索しないのが飯屋だ。名乗りたきゃ向こうから名乗るし、名乗らない間は、よく食う兄ちゃんで十分なんだよ」
番頭は納得のいかない顔で、それでも帳面に「大盛り三杯・現金」とだけ書いた。正しい記帳だった。
俺は空になった煮込みの鍋を眺めていた。
懐かしい、と言った。
うちの品書きに、あんな献立を載せたことはない。こっちの世界のどこの店にも、あの味はないはずだ。あるとすれば、竈と天幕の下で、十年出し続けた列の中だけだ。
機構には内緒、とも言った。
フードの下の顔を、俺は思い出そうとして、やめた。詮索は屋台の流儀じゃない。ただ、明日の賄いは、少し多めに仕込んでおくことにした。




