第13話 特例第一号
呼び出しの電話は、期限当日の朝に来た。
結果は文書で来るはずだった。それが「支部までお越しください」ときた。いい知らせなら紙で済む。悪い知らせなら、なおさら紙で済む。わざわざ呼びつけるってのは、どっちなんだか読めなかった。
小野寺と二人、あの三階の廊下を歩いた。ひと月半前、判を二度押して出てきた廊下だ。廊下の匂いは変わっていなかった。俺の方は、あの日より腹が据わっていた。守るものがある人間ってのは、そういうもんらしい。
隣の小野寺は、歩きながら小声で何かを唱えていた。耳を澄ますと、条文だった。特例許可の根拠条項を、順番に諳んじている。
「お経か、それは」
「験担ぎです。数字と条文は、口に出すと落ち着くんです」
「変わった験担ぎだな」
「真田さんこそ、摘発予告の晩、打ち合わせの後に自分用の串を焼いてたじゃないですか。あれ、験担ぎでしょう。見てましたよ」
お互い様だった。廊下の突き当たりで、二人とも一度だけ深く息を吸った。
窓口に出てきたのは、柴田だった。
「結果をお伝えします。ええ、規則ですので」
差し出された書面を、小野寺が両手で受け取った。目が上から下まで三往復して、止まった。
「ダンジョン産食材取扱・特例許可。……第一号」
「審査の結果です。私見は挟んでおりません」
柴田の声は平坦だった。平坦すぎて、悔しさの形が透けていた。
書面の下段に、審査所見が付いていた。小野寺が読み上げる。
「衛生管理は模範水準。工程の標準化は既存事業者の水準を上回る。また——調理済み食品の保存性について、計測値が既存の衛生基準の想定を大きく上回る。要因は特定できないが、安全側の逸脱であり問題としない」
「保存性?」
「汁物の温度低下と菌数の推移です。三回計測して、三回とも、理屈より良い数字が出たと。技術職員が首を捻ってました」
鍋の質だろう、と俺は言った。小野寺は書面から顔を上げて、何か言いかけて、やめた。手帳のどこかに、また一行増えた気配だけがした。
受領印を押す段になって、小野寺の手が少し震えていた。朱肉に判を三度当てて、それでも真っ直ぐには押せていなかった。三年、成果ゼロと査定されてきた渉外課の、これが初めての白星だった。
「おめでとうございます。ええ、規則ですので」
柴田は最後までそう言った。規則で負けた男の、負け惜しみまで規則だった。
その晩の屋台は、宴になった。
彷徨茸と角猪の鍋。特例第一号の記念だから、今まで一番うまい組み合わせを堂々と出す。
鍋ってのは順番が九割だ。まず飴色茸の戻し汁と昆布で底を張り、豆腐と葱を沈める。彷徨茸は香りの茸だから中盤、猪はバラの薄切りを最後にしゃぶしゃぶで泳がせる。先に入れると硬くなって、脂が汁を濁らせる。猪の脂は汁の表面で金色の輪になるくらいが正解だ。アクは最初の五分だけ丁寧に引いて、あとは触らない。触りすぎた鍋は味が痩せる。
〆は麦飯を入れて雑炊だ。卵でとじて、いぐちの醤油をひと垂らし。
「許可証、額に入れてきたっす!」
久保田が文具屋の安い額縁を掲げた。屋台の柱の、一番目立つ高さに掛かる。B級の兄さんが口笛を吹き、背広の二人が拍手して、薬局の主人が「店の格が上がったねえ」と湯気の向こうで笑った。
「ちなみにこの許可、俺らの買い取りも公認ってことっすよね」
「そうなります。台帳の様式もこのまま使えます」
「聞いたかお前ら! 俺の帳面、国家公認っす!」
「国家は言い過ぎだよ」
トメの突っ込みで卓が沸いた。眼鏡の荷運びが「公認記帳係」と書いた紙を久保田の背中に貼り、剥がされるまで誰も教えなかった。
トメと小野寺が、カウンターの端で並んで鍋をつついていた。
「役所のねえちゃん。あんた、今日はいい仕事をしたよ」
「いえ。私はまだ、何も」
「何もってことがあるかい」
「特例は、隙間の勝利なんです。制度の本体は、何も変わってない。等級外の人が明日どこかでクビになっても、それを止める規則は、まだどこにもない」
小野寺は鍋の湯気を見ながら言った。祝いの席で言うことじゃない。言うことじゃないが、こういうことを祝いの席でも忘れない人間が、たぶん本当に制度を変えるんだろう。
「ま、今夜は食いな。難しい話は腹が減る」
トメが取り皿に猪をよそってやり、小野寺は素直に無言になった。
無言のまま三杯食って、四杯目の前でようやく箸を置いた。
「真田さん。次は、制度の本体を変えます。時間はかかりますけど、今日の許可証が最初の一枚です。前例って、そういうものなので」
「気の長い話だな」
「役所の時計は遅いんです。でも、止まってはいないので」
許可証の控えを、小野寺は皺にならないよう、鞄の一番硬い場所に仕舞った。
俺は、と言えば、柄にもなく落ち着かなかった。十年と一月半。紙の上で三行だった俺の仕事に、初めて一枚、味方の紙がついた。嬉しいかと訊かれたら、まあ、鍋に訊いてくれ。今夜の鍋は、我ながらいい出来だった。
締めの雑炊は三度炊いた。三度目の土鍋が空になる頃、終電が駅を出ていって、宴はお開きになった。額の中の許可証が、屋台の灯りで鈍く光っていた。悪くない眺めだった。
◇
同じ夜、機構県支部の執務室。
特例許可交付の報告は、その日のうちに第一討伐部隊長の耳に入っていた。
「渉外課が、俺の摘発を潰したのか」
「潰したというか、その、審査の結果でして。技術職員が満点に近い所見を。私としても規則上、どうにも」
「もういい」
柴田の言い訳を、鏑木は最後まで聞かなかった。等級外の飯炊きに、審査で満点。その一件が机の上の何かを変えたようには見えなかった。ただ、書類をめくる指が、普段より一枚ぶん速かった。
机の上には、決裁待ちの計画書が開いてある。
第一討伐部隊・大規模遠征計画。目標、県内ダンジョン最深部域。投入戦力二百十名、行程十四日。装備更新費、増額済み。討伐目標値は前回遠征の三倍。達成すれば、支部の年間査定が跳ね上がる数字だった。
戦果で全てを黙らせる。そういう規模の紙だった。
兵站の欄には、一行だけ書いてあった。
——食糧は各自携行、現地調達を可とする。
鏑木は計画書の末尾に判を押した。迷いのない、乾いた音が、夜の執務室に一つだけ響いた。
出発予定日の欄には、十日後の日付が入っていた。




