第14話 崩れる陣の顔
機構県支部の備品倉庫で、棚卸しの職員が妙な山を見つけたのは、大遠征の五日前だった。
前回遠征の携行食が、箱ごと返品されて積んである。開封すらされていない箱が三十七。一番上の箱の側面に、油性ペンの走り書きがあった。
——これを食うくらいなら抜く。
箱を開けた職員は、中身の賞味期限を確かめて、首を捻った。期限は切れていない。味に問題があるわけでもない、はずだった。同じ物を自分の昼飯に一本齧ってみて、三口目で理解した。これを山の中で、朝昼晩、二週間。歯が拒否する前に、心が拒否する味だった。
職員は写真を三枚撮って、報告を上げた。報告書は企画管理課で止まった。
「大遠征の直前に士気に関わる文書を回すのは、いかがなものかと。ええ、時期の問題です」
柴田は決裁箱の一番下へ、その紙を差し込んだ。箱の中には先客がいた。先週の体調不良報告の続報。観測班の週次上申。遠征装備の積載重量の再計算依頼。差出人は輸送担当の若手で、「食糧と水の積載が計画値と一致しません」という一行が、誰にも読まれないまま眠っている。
数字は、箱の中では誰も傷つけない。箱の外に出るまでは。
午後、討伐部隊の若手が二人、廊下で柴田を待ち伏せた。遠征に温食の車両を一台、せめて湯を沸かせる設備を、という直訴だった。
「課長、自分たちは戦えます。戦えますが、前回、山で一番堪えたのは魔物じゃないんです。夜に、温かい物が一口もないことなんです」
「気持ちは分かります。ええ、分かりますとも」
柴田は薄い書類挟みを胸に当てた。盾の構え方だった。
「ですが装備の積載が優先です。湯沸かし車両一台分の重量で、予備の刃が四十本積める。刃は戦果になります。飯盒で戦果が出るなら、誰も苦労はしません」
「……失礼しました」
若手たちは、支給された最新の刃と、空の飯盒を持って持ち場に戻った。廊下の窓から、整備場に並ぶ装甲車両が見えた。ぴかぴかの車列のどこにも、煙突は一本もなかった。
◇
「機構の大遠征、なんかヤバいらしいっすよ」
屋台では、栗ご飯の湯気の向こうで、久保田が仕入れてきた噂を披露していた。九月の末、夜風はもう肌寒い。
栗は朝のうちに、トメと二人で剥いた。鬼皮は湯に浸けてから、渋皮は包丁の腹で。五十年剥いてきた婆さんの手は、俺より二割速かった。米は塩を控えて、酒を一合。栗の甘さは塩で立てるが、立てすぎると菓子になる。飯の栗は、飯の側に残しておくのが俺の好みだ。
土鍋で炊いたら、蓋を開けるたびに歓声が上がって、列が普段の倍になった。持ち帰りの主婦が三人、「子どもが栗だけ先に食べちゃうのよね」と笑いながら包みを提げていく。秋ってのは、それだけで店の味方だ。
「最深部までやるって触れ込みなんすけど、行く奴らの顔が死んでるって。前の遠征で腹壊した連中、まだ本調子じゃないらしくて」
「飯、またレトルトと栄養バーだけって話だぜ」
B級の兄さんが栗を頬張りながら続けた。
「俺の同期も行くんだよ。装備は過去最強、飯は過去最低って笑ってた。笑いごとじゃねえと思うんだけどな」
トメが黙って、その兄さんの丼に栗を二つ足した。
「うちの会社と同じだねえ」
背広の一人が、湯呑みを撫でながら言った。
「経費削減って号令がかかるとさ、真っ先に消えるのが残業飯の補助なんだよ。で、半年後に辞める奴が倍になる。偉い人の帳簿には、飯代の欄はあっても、辞めた奴の欄はないんだな」
妙にしみる愚痴だった。どこの世界も、帳簿の欄の作り方で組織の寿命が決まるらしい。
閉店間際、火を落としながら、昔のことを思い出していた。
十年の従軍で、崩れる陣ってのをいくつか見た。派手に崩れた陣は一つもない。どれも、静かに崩れた。
最初に崩れるのは、配食の列だ。
兵站を削って進軍した友軍の陣に、炊き出しの応援に入ったことがある。着いてまず見たのは、冷えた竈だった。炊事場の鍋は汚れたまま重ねてあり、薪は湿気て、水瓶は底が見えていた。炊事兵は三人とも前線に回されたという。飯より剣が要ると、そこの指揮官は言ったそうだ。
その日の夕方、配給の列で、兵が二人殴り合っていた。原因は、パンの大きさの差だ。親指ひと関節ぶんの差で、歴戦の兵が殴り合う。列に並ぶ順番で賭けが始まり、賭けの負けで盗みが始まる。目つきが、飢えの順番に濁っていく。
俺は三日で列を立て直した。やったことは大したことじゃない。同じ大きさに切って、同じ順番で配って、鍋の残りを全員に見えるところへ置いた。それだけで殴り合いは止まった。腹の底が読めない陣は荒れる。読めるようにしてやれば、人間は列に戻る。
だが、俺が引き上げた半月後、その陣は夜襲で潰れた。魔物にやられる前に、中から腐っていた。見張りが持ち場を離れて、食い物を漁っていたからだ。
「飯を削る軍は、崩れる」
声に出して、言ってみた。誰も聞いていない駅前で、湯気だけが返事をした。
「刃こぼれより先に、腹の底からだ」
◇
大遠征の出発は、夜明けだった。
装甲車両の列が、桜台の駅前を通過していく。洗い立ての装甲が朝日を弾いて、隊列は写真映えのする眺めだった。実際、沿道では市の広報が写真を撮っていた。
仕込みの手を止めて、俺はしばらくその列を見ていた。早起きの久保田が、詰所に向かう途中で隣に並んだ。
「すげえ数っすね。あれ全部で何人くらいなんすか」
「車の数からすりゃ、二百は下らんな」
「二百人が二週間って、飯、どれくらい要るんすか」
「米だけで一トン。水は、飲む分だけで八千リットル。運ぶ手間を入れりゃ、装備と同じだけの荷になる」
「……あの車列に、そんな積んでるように見えないっすけど」
「見えないな」
久保田は変な顔をして詰所へ走っていった。
車両の窓越しに、隊員たちの顔が流れていく。若いのが多い。みんな、行儀よく前を向いている。
車列の最後尾が角を曲がると、駅前にはまた、いつもの静けさが戻った。広報のカメラマンが機材を畳みながら、うちの品書きを横目で二度見していったのが、今朝いちばんの救いだった。
見送りの列に、飯の匂いはなかった。
出立の朝ってのは、本当なら、陣中最後の温飯の匂いで送り出すもんだ。腹の中の温かさが、最初の三日を保たせる。あの車列の腹の中には、包装フィルムの音しかしない。
俺は十年、崩れる陣を見てきた。
あの車列は、その顔をしていた。




