第5話 包丁は嘘をつかない
婆さんは、一時間動かなかった。
夕方の仕込みどきだ。屋台の正面、まな板が一番よく見える位置に立って、腕を組んだまま、注文をしない。買い物籠もない。つまり、ここへ来ることが今日の用事なんだろう。
追い払う理由もないから、俺は仕込みを続けた。人参の皮を剥き、玉葱を刻み、角猪のモモから筋を外す。筋引きは刃先の仕事だ。銀色の膜一枚を、肉を削がずに滑らせて取る。まな板の音が変わるたび、婆さんの首がわずかに動くのが分かった。目は手元に張り付いたままだ。籠の鶏を品定めする、市場の仲買の目だった。
見られて乱れる腕なら、とうに矯正されている。野戦の炊事場ってのは、いつだって誰かが見ていた。腹を減らした千人に見られながら切る大根と比べりゃ、婆さん一人の視線はそよ風みたいなもんだ。
茶を一杯、湯呑みに注いで、カウンターの端に置いた。
「頼んでないよ」
「客じゃなくても、立ってる人には出す。うちの流儀でね」
「ふん」
湯呑みは、受け取られた。飲み口を確かめるように一口、それから普通に一口。器の中身より、器の洗い方を見た飲み方だった。
日が落ちて、久保田たちが来て、丼が四つ出た頃になっても、婆さんはまだいた。丼をかき込みながら久保田が気づいて、素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、いぐちの婆ちゃんじゃないすか」
「知り合いか」
「駅前の食堂の婆ちゃんすよ。俺が中坊のときまでやってた店で、オムライスが名物で、あと宿題やってると裏メニューでプリンが」
「余計なことをお言いでないよ」
婆さんが初めて口を利いた。声は小さいのに、久保田の箸がぴたりと止まった。五十年、店の板場から客席を仕切ってきた声ってのは、ああいう通り方をする。
婆さんは湯呑みを置いて、顎でまな板をしゃくった。
「あんた。煮物は、できるのかい」
肉じゃがを作った。
角猪のバラを湯通しして、臭みの膜を流す。じゃがいもは、あえて面取りをしなかった。上品に炊くなら角を落とす。だが角が煮崩れて汁がとろりと濁る、あの濁りが飯を呼ぶ。大衆食堂の肉じゃがってのは、そういうもんだ。この婆さんが五十年張ってきた土俵は、たぶん料亭の側じゃない。
砂糖を先に、醤油は二度に分けて。落とし蓋の下でくつくつ言わせて、火を止めてから一度冷ます。煮物は冷める時に味が入る。時間が惜しいときは鍋ごと濡れ布巾の上だ。今日は、惜しまなかった。
湯気ごと鉢に盛って、出した。
婆さんは箸を取って、まずじゃがいもをひとつ割った。断面を見る。汁の染みの深さを見る。それから肉を一切れ、汁を一口。
長いこと、何も言わなかった。
駅の方を電車が通って、行ってしまうまで、まな板の上の湯気だけが動いていた。
「……あんた、いい音させるねえ」
「音?」
「包丁の音だよ。夕方からずっと聞いてた。トントントン、って拍子が一度も乱れない。急いでも乱れない、疲れても乱れない音だ。ああいうのは十年二十年じゃ出ないんだよ。包丁ってのは、嘘をつかない」
それから鉢に目を落として、付け足した。
「砂糖がひと匙多いね。あたしなら味醂で引く」
「覚えとく」
「出汁は何を使った」
「昆布と煮干し。それと肉の湯通しの二番」
「湯通しの湯を取っといたのかい。ふうん、捨てない主義だね、あんた」
「捨てるほど持ってた時代がないもんでね」
「けど、この煮崩れは分かってて崩してるね。面取りしなかったろう。ふん。——兄さん、どこで炊いてた」
「向こうで。千人ほどの所帯だった」
「千人」
婆さんは繰り返して、鉢の残りを黙って食い終えた。それが答えの代わりらしかった。
井口トメ、と婆さんは名乗った。駅前で五十年、食堂「いぐち」をやっていた。三年前の氾濫のあとに店を畳んで、今は薬局の二軒隣の自宅にいるという。
「あの日はね、駅の方から地面が鳴ったんだ。ずうん、ってさ。店のガラスがみんな波打った。魔物は機構がすぐ片付けたよ。うちは皿の一枚も割れなかった」
トメは湯呑みの底を撫でた。
「けど、次の日から客が来ない。その次の日も来ない。ひと月で通りの人通りが半分になって、半年で商店会の寄り合いが立ち消えた。壊されて畳んだんじゃないよ。誰も来なくなって、畳んだんだ。どっちが応えるか、あんた分かるかい」
久保田が箸を置いていた。いつも二杯食う男が、丼を半分残して聞いていた。
「俺、いぐちのプリン、もう一回食いたかったす」
「あんたは黙って食いな。若いのが残すのが、あたしは一番嫌いだ」
久保田が慌てて丼をかき込んで、少しだけ、卓の空気が軽くなった。
「あんたら探索者かい。稼げてんのかい、それ」
「げ、げんざい修行中っす」
「昔はね、あんたみたいな若いのが店の前に自転車停めて、部活帰りに定食食ってったんだ。育ち盛りが飯を食う音ってのは、店の景気の音なんだよ。三年、聞いてないけどね」
帰り際、トメは屋台の柱を、指の節で二度叩いた。
「あんたの車は、いい車だ。火の据え方も、水場の使い方も分かってる。けどね、兄さん」
「なんだ」
「一人で回せる商売の大きさってのがある。あんたの飯は、じきにそれを超えるよ。超えた時にどうするか、今のうちに考えときな」
「……忠告として聞いとく」
「忠告じゃないよ。予言だ」
それから、思い出したように付け足した。
「明日も来るよ。味が続くかどうか、見張りにね。一見の一皿でうまいのは、半分は運なんだ。毎日うまいのが商売って言うんだよ」
勘定を置いていこうとするから、品定め料と相殺だと断った。トメは「変な商売」と鼻を鳴らして、それでも小銭を茶代だと言ってカウンターに残した。一杯の茶に、きっちり茶の値段だけ。筋の通し方が、板場の人間のそれだった。
トメは駅前の暗がりを振り返った。シャッターの列に、街灯が二本。片方は今夜も点滅している。
「あんたの飯は温けえよ。それは認めてやる。けどね、兄さん。この街は、腹の底から冷えてんだ」
小さな背中が薬局の角を曲がって消えるまで、俺は見送った。
腹の底から冷えてる、という言い方が、耳に残った。飯屋の婆さんの言葉にしては、ずいぶん深いところを指す言い方だ。五十年、駅前の腹具合を椀の数で見てきた人間の言い方だった。
点滅していた街灯が、じじ、と鳴って、少しの間だけ点きっぱなしになった。
明日の仕込みは、多めにしておくことにした。




