第3話 深夜の最初の客
開店から三時間で、売れたのは茶が一杯だった。
それも金は取っていない。白線を引き直しに来た市の職員に出した茶だから、売上で言えばゼロだ。職員は湯呑みを両手で持って、うまいですねと言って、白線を引いて帰った。いい仕事だった。白線だけが真新しい駅前ってのも、妙なもんだが。
昼の駅前は、思っていたより人が通る。通るが、止まらない。
品書きの木札に目をやって、二秒で逸らして、みんな早足になる。買い物帰りの母親が一度だけ足を止めかけて、子どもの手を引いて行ってしまった。知らない屋台の飯ってのは、それだけで敷居が高い。分かってはいた。分かっていても、減らない鍋ってのは、なかなかの眺めだ。
昼飯どきを過ぎて、自分の賄いを食った。客用に炊いた飯だ。減らないなら俺が食う。炊き立てを一膳、汁を一杯。うまく炊けていた。うまく炊けているのが、今日は少しばかり恨めしい。
火はずっと細く保った。客が来てから点けるんじゃ遅い。来るか分からない客のために火を守るのが屋台って商売だと、初日にして骨身に沁みた。向こうの野営じゃ、火を絶やせば死人が出た。こっちじゃ、絶やしても誰も困らない。困らないってのは、思ったより寒いもんだ。
「兄さん、新しく来た人かい」
夕方、声をかけてきたのは向かいの薬局の主人だった。湿布の匂いを連れて、カウンターの丸椅子に腰かけて、茶を一杯飲んでいった。
「悪いことは言わないよ。ここじゃ夜はやめときな。三年前から、夜にこの駅前を歩くのは幽霊くらいのもんだ」
「三年前ってのは、氾濫の」
「そう。魔物はすぐ片付いたよ。うちの店なんか、割れたのはガラス一枚だ。でもね、人の足ってのは正直でさ。一度『あそこは危ない』って覚えたら、道ごと忘れるんだ。駅の反対側にスーパーができたのもあってね。こっち側は、まあ、ご覧の通り」
主人は湯呑みの中を覗きこんで、それきり氾濫の話はしなかった。
「兄さんの茶はうまいね。葉っぱがいいのかい」
「湯の温度だな。いい葉は熱湯じゃ拗ねる」
「へえ。飯屋の言うことは違うや」
主人は笑って、それでも何も注文せずに帰った。薬局は六時で閉まる。シャッターの音が、広場に長く響いた。
夜が来た。
街灯が二本。片方は切れかけで、思い出したように点滅する。改札から出てくる人間は一時間に数えるほどで、みんな駅前を素通りして住宅地の方へ消えていく。
客は、来なかった。
火を細くして、道具の手入れを始めた。
包丁を研ぐ。荒砥、中砥、仕上げ。しゃっ、しゃっ、という音だけが広場に流れる。まな板に湯をかけ、布巾を煮て、椀を拭く。
什器の箱の底に、木の椀が一つある。
縁の欠けた、古い椀だ。売り物の椀とは別にしてあって、誰にも使わせない。これだけは、向こうから持って帰ってきた。手に収めると、椀ってのは不思議なもんで、重さより先に温度を思い出す。
布で拭いて、包み直して、棚の一番奥へ戻す。
それが済むと、やることがなくなった。竈の火だけが、小さく鳴っている。
日付が変わる少し前だった。
駅の方から、足音がひとつ近づいてきた。まっすぐじゃない。右に寄って、左に寄って、電柱に一度ぶつかった。
酔っ払いかと思ったが、違った。安物の胸当てが街灯の下で鈍く光っている。泥と埃で汚れた若いのが、屋台の灯りの前で立ち止まって、口を半分開けた。
「やってる、んすか」
「やってる」
「飯、あります? コンビニ、棚が全滅で。自販機の前で、心が折れて」
「座れ。立ってると倒れるぞ」
若いのはパイプ椅子に崩れ落ちた。近くで見ると二十歳そこそこだ。手の甲に擦り傷、唇が乾いて割れている。汗が引いた後の塩が、首筋に白く残っていた。ダンジョン帰りだ。それも、朝から飲まず食わずで潜っていた身体だ。
「丼と、汁と、雑炊がある。どれにする」
「え、じゃあ丼を」
「雑炊にしとけ」
「え」
「今のあんたの腹に、丼は重い。噛む力が残ってない。雑炊なら噛まずに入って、腹の中で飯になる」
「……じゃあ、それで」
注文を訊いておいて答えを変えさせるのは、商売としてはどうかと思う。だが飯ってのは、売る物である前に、食う人間の身体に入る物だ。そこは向こうもこっちも変わらない。
火を細くしてあった鍋は、蓋を取るとまだ十分に熱かった。干し肉の出汁に飯を入れて崩し、卵を回して、葱を刻む。生姜をほんのひとかけ。冷えた内臓は、生姜が起こしてくれる。土鍋の縁がふつふつ言い出したところで火から下ろした。
三分で出した。待たせていい客と、待たせちゃいけない客がいる。こいつは後の方だ。
「熱いぞ。ゆっくりでいい」
若いのは椀を両手で受け取って、一口すすった。
手が止まった。
それから、何も言わなくなった。れんげが椀の底に当たる音だけが、深夜の駅前に続いた。途中で一度、洟をすすった。味のせいだけじゃないだろう。疲れた身体に熱い飯が入ると、人間は勝手にああなる。十年、嫌ってほど見てきた。
「……うまい」
椀を置いて、若いのはそれだけ言った。それから慌てて財布を出して、小銭を数え始めた。
「五百でいい」
「え、いや、これ絶対もっとするやつっす」
「開店初日の一杯目だ。縁起代に負けとく」
久保田っす、と若いのは名乗った。久保田悠斗。D級探索者。桜台のダンジョンで薬草や魔石を拾って日銭にしているという。
「今日、奥まで行ったんすよ。奥の方が魔石の質いいんで。でも帰りが延びて、飯の計算飛んで。慣れてる奴は行動食持ってくんすけど、あれ地味に高くて」
「いくらだ」
「一本四百円とか」
「四百あったら、うちで雑炊が食える」
「それなんすよ」
久保田は力なく笑った。防具の胸当てには補修のテープが二重に巻いてある。D級の稼ぎがどの程度か、テープの厚みで大体分かった。等級の話になったとき、俺が元機構の雑用だと言うと、久保田は雑炊の残りを飲み干してから、ぼそっと言った。
「D級なんて、いてもいなくても同じって言われるっす。でも大将の飯、いてよかったって味がするっす」
「そりゃどうも」
意味はよく分からなかったが、悪い気はしなかった。
「大将、明日もやってるんすか」
「毎日やってる」
「マジすか。じゃあ俺、明日も来ます。仲間にも言っときます。この時間、飯屋どこも開いてなくて、みんな死んでるんで」
「おう。並ぶほど来たら、待たせず出す」
久保田は帰りかけて、二度振り返って頭を下げて、三度目に立ち止まった。
「あの、大将。変なこと訊いていいすか」
「なんだ」
「角猪って——ダンジョンのデカい猪いるじゃないすか。あれの肉って、食えるんすか」




