第2話 退職金八十万の使い道
「これ、火は強いのか」
「お客さん、見るとこ、そこかい」
市外れの中古車屋。並んだ車の一番奥で、俺は白いキッチンカーの後ろ扉を開けていた。車体の艶は死んで、側面の「クレープ」の文字は半分剥がれている。だが換気扇は業務用が入っていて、コンロの口は三つ。立ったまま半歩で、鍋にもコンロにも流しにも手が届く。
「こっちの新しいのじゃなくていいのかい。ほぼ同じ値段で、内装ピカピカだよ」
「新しい方は火が家庭用だ。鍋を三つ並べたら風で負ける。こいつは前の持ち主が中で揚げ物をやってたな。油の染み方で分かる」
「へえ」店主が顎を撫でた。「あんた、素人じゃないね」
「前の持ち主は、なんで手放した」
「クレープ屋の若い夫婦でね。駅前に出したんだけど、三ヶ月もたなかった。この辺、キッチンカーの出物はみんなそれだよ。始める人間より、畳む人間の方が多い街なんだ」
冷蔵庫の裏に手を入れて、圧縮機の熱を確かめた。生きてる。走行距離は十一万キロ。エンジンより先に、俺の膝が駄目になる程度の距離だ。
「商売、何やるんだい」
「飯屋だ」
「場所は」
「桜台の駅前」
店主が値札を書きかけた手を止めて、俺の顔を見た。
「やめときな、とは言わないけどさ。あそこ、夜は真っ暗だよ」
「暗けりゃ、灯りが目立つ」
四十九万八千円。書類代の端数は店主がまけてくれた。決め手は値切りじゃない。俺が排気口の網を外して、内側の手入れの跡まで確かめたことだったらしい。道具ってのは、見る奴が見れば手入れの歴史まで分かる。竈も車も同じだ。封筒から現金を数えて渡すと、店主は「商売あがったりの街で、商売の目をした客は久しぶりだ」と笑った。
三日かけて名義と保険の手続きを済ませ、桜台の市役所分室で区画の申請をした。
窓口の若い職員は、書類より先に俺の顔を二度見した。
「復興屋台区画、ですか。ええと、三年ぶりの申請なので、様式を探してきます」
戻ってきた様式の綴りには、うっすら埃の匂いがついていた。三年、誰も開かなかった綴りだ。
「あの、本当にあそこでやるんですか。人、通らないですよ。僕、氾濫の年からここにいますけど、駅前は夜になると、その」
「幽霊が出るって顔だな」
「いえ、出ないです。出ないのが、逆に寂しいっていうか」
職員は壁の地図で区画を示してくれた。駅前広場の南の角。水道栓と電源柱つき、使用料は実費。指でなぞった地図の駅前一帯には、テナント募集の赤い付箋がいくつも重なって貼られていた。
判子は三つで済んだ。場所代は月五千円だという。安いんじゃない。取れないんだ、誰も借りないから。帰り際、職員が「区画の白線、消えかけてるんで引き直しときます」と言った。三年ぶりの申請ってのは、役所の人間もちょっと嬉しいらしい。
契約を終えて駅前に戻ると、広場に西日が長く伸びていた。
車を停める区画を、歩幅で測って歩く。水道の位置、電源柱、風の抜ける向き。夕方の風は山側から吹く。なら煙とにおいは駅の改札へ流れる。においってのは宣伝の看板より正直だ。腹の減った人間の足を、匂いは黙って掴む。
ふと、視線に気づいた。
通りの向かいの薬局の軒先で、小柄な婆さんがこっちを見ていた。買い物籠を提げたまま、動かない。俺の手元を——歩幅で寸法を取る足を、水道栓を確かめる手を——順番に目で追っている。
会釈をしたら、ふいと横を向かれた。それきり婆さんは角を曲がって行ってしまった。
品定めされたな、と思った。ああいう目は、市場の仲買の目だ。
仕入れは市場と業務スーパーを回った。
乾物屋で煮干しと昆布と干し椎茸。味噌は樽の見本を三つ嘗めて、一番高いのを選んだ。醤油と味醂も同じ棚の一番上からだ。出汁と味噌と塩。汁の骨になるものはケチらない。骨さえ良けりゃ、肉は安いところから始められる。
乾物屋の親父に「開業かい」と訊かれて、桜台と答えたら、袋に煮干しをひと掴み余分に入れられた。「香典代わりだ」と笑っていたが、目は笑っていなかった。あの駅前は、市場の人間にとってもう終わった場所らしい。
米は迷った末に、安いブレンド米を二十キロ。銘柄で売る飯じゃない。炊き方で立てる飯だ。浸水と蒸らしの時間さえ間違えなけりゃ、ブレンド米ってのは案外に化ける。
帰りの車で、財布の中身を勘定した。車と什器と仕入れで、八十万はもう二十万を切っていた。数字に強くはないが、減る速さくらいは分かる。
その晩から、車で寝た。
棚の高さを決め、鍋を吊る位置を決め、まな板の奥行きを決める。配置が一寸違うだけで、一日の終わりに腰へ来る。千人分を回す竈の配置も、一人で回す車内の配置も、考え方は同じだ。動線に無駄な半歩を作らない。夜中、金具を締める音が広場に響いて、少し申し訳なかったが、聞く人間もいなかった。
粗大ゴミの札が貼られた丸椅子を二脚、許可をもらって拾ってきた。座面を拭いて、脚のガタを木片で直す。カウンターの端に置くと、急に店の顔になった。椅子ってのは不思議なもんで、置いた数だけ「ここに座っていい」と言ってくれる。
夜食は塩むすびと味噌汁にした。
飯を炊いて、干し肉の戻し汁に味噌を溶いて、玉葱の甘みを足しただけの汁だ。むすびの塩は指三本でふたつまみ。握りは三角に二回半。手数が増えるほど飯は硬くなる。
食い終えて、鍋に蓋をして寝た。
朝、蓋を開けたら、味噌汁からまだ湯気が立った。
昔からこうなんだ。俺の鍋は冷めにくい。夜に仕込んだ汁が朝まで温かいんで、野営じゃずいぶん重宝された。理由は知らん。鍋のせいでもないらしい。まあ、便利な癖みたいなもんだと思っている。
朝飯を済ませて、品書きの木札を削った。
飯。汁。丼。その日の一品。字は下手だが、読める字ではある。値段はコンビニ弁当を三軒見て回って、その少し下に置いた。相場ってのはそうやって足で測るもんだと教わったのは、向こうの市場でだ。
最後に、車体の剥がれたクレープの文字の上へ、ペンキで屋号を入れた。
かまど屋。
十年、俺の呼び名は「サナダの竈」だった。こっちでも竈でいく。ひねりも何もないが、飯屋の名前なんてのは、うまけりゃ勝手に覚えられるもんだ。
刷毛を洗いながら、暮れていく駅前を見た。
人はいない。シャッターに西日の名残りが引っかかっているだけだ。薬局の軒先にも、今日はあの婆さんの姿はない。
客が来るかは、分からん。
それでも、開店は明日の昼だ。




