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第1話 戦えない奴に予算は出せない


「戦えない奴に予算は出せない」


長机の向こうで、若い男はそう言った。

機構県支部、三階の会議室。冷房が効きすぎていて、机に置いた指先がさっきから冷えている。俺はその指を一度だけ握って、開いた。


「真田幸雄さん。三十八歳。雑用契約、期間満了につき更新なし。本日付です」


隣に座った柴田という課長が、老眼鏡をずらして書類を読み上げる。紙をめくるたびに糊の匂いがした。刷りたての書類だ。俺を切るための紙を、わざわざ今朝こしらえたらしい。


「規則ですので。ええ、規則ですので」


読み上げた当人は、俺の顔を一度も見なかった。


呼び出しの紙には「契約に関する面談」としか書いていなかった。三ヶ月やった雑用契約の——倉庫整理と詰所の掃除と、たまの荷運びだ——更新の話だと思って来た。会議室に入って、長机の向こうに討伐部隊の制服を見た時点で、筋は読めた。偉い奴ってのは、切る時にだけ同席する。


鏑木蓮司。第一討伐部隊の隊長で、テレビじゃ「最年少S級」と呼ばれている男だ。座っているだけで圧の伝わる身体をしていた。本物の強さってやつだ。ああいうのを十年、俺は列の向こう側から眺めてきた。


「契約解除の事由は、次年度予算の削減と、討伐戦力への重点再配置です。個人の勤務態度に問題があったわけではございません。ええ、そこは記録に残しておりますので」

柴田がそう付け足した。勤務態度に問題はなかった、と紙に書いた上で切る。役所ってのは丁寧な仕事をする。


「異議は」

「ない」

「なら手続きを」


それで終わるはずだった。判を取り出した俺の手元で、鏑木の目が止まった。


「その手。火傷か」

「竈ダコだ。古いやつでね」

「向こうでの職務は」

「飯炊きだ。勇者部隊の後ろで、十年」

「人数は」

「千人。三食。休みなしだ」

「証明できるか」


書類仕事は主計の連中の受け持ちだった。兵站簿は王国軍の倉庫ごと、閉じた門の向こうにある。俺が黙っていると、鏑木は視線を手元の書類へ戻した。


「後方職の実績は数値化できない。自己申告では査定のしようがない。討伐数が予算を守り、予算が次の氾濫から市民を守る。——数字にならない献身は、存在しないのと同じだ」


空調が、ひとつ低い音を立てた。柴田が咳払いをして、続きを読み上げる。戦闘技能認定なし。数値化可能な実績なし。等級、認定外。紙の上の俺の十年は、三行で終わった。


「等級外。つまり、測る価値がなかったということだ」


嫌味で言ったのではないと思う。あの男にとっては、事実を読み上げただけだ。機構の中で三ヶ月働いたから、その理屈は知っている。筋は通っているんだ。筋は。


判を押した。朱肉が薄くて、二度押した。


そのあとは事務の時間だった。身分証を返し、ロッカーの鍵を返し、受け取る物と返す物の一覧に指でチェックを入れていく。退職金の振込額の欄には、八十万と少し。十年と三ヶ月の、こっちでの値段だ。

「再就職の斡旋制度もございますが、等級保持者が優先となっております。規則ですので」

「だろうな」

一覧の紙は、俺の分だけ妙に軽かった。


帰り際、一階の職員食堂の前を通った。本日のA定食、鶏の唐揚げ。ガラス越しに、大鍋を一つしか使っていない厨房が見えた。三ヶ月、ここの飯を食ったが、一度もうまいと思わなかった。味付けの問題じゃない。あの鍋の数で三百人に出そうとすれば、揚げ置きになる。悪いのは料理人じゃなく、設備と段取りを決めた奴だ。

そういうことばかり目につく男を、機構は要らないと言った。まあ、そうかもしれん。


庁舎を出ると、暮れかけた路上にまだ夏の熱が残っていた。八月の終わり。ネクタイの連中は上着を腕に掛けて歩いている。俺は作業着の袖をまくり直しただけだった。


駅の柱に機構のポスターが貼ってある。剣を構えた討伐部隊の男が白い歯を見せて、帰還者と共に安全な明日を、と書いてあった。あの明日に、飯炊きの席はないらしい。


電車に乗って、二駅の間、中吊りを眺めた。週刊誌の特集に「最年少S級、単独討伐記録を更新」の見出し。写真の顔は、さっき俺に判を押させた男だった。どこにいても目に入る顔ってのがある。俺の顔は、たぶん明日には機構の誰も覚えていない。


十年前の春、世界中に門が開いて、呑まれた三千人が向こうの戦争を十年やらされた。魔王が死んだら一斉に送り返されて、だから俺は今ここにいる。説明すればそれだけの話だ。それだけの話に、十年かかった。


桜台の改札を出ると、広場を抜ける風が埃っぽかった。シャッターの列。クリーニング屋、金物屋、青果の島田。錆の色の濃さで、閉めた順番が何となく分かる。看板だけ残った焼き鳥屋の跡からは、もう油の匂いもしなかった。三年前に郊外のダンジョンが小さく溢れてから、この駅前の客足は戻っていないという。


広場の隅の掲示板に、色の抜けた貼り紙が一枚留まっていた。

復興屋台区画・出店者募集。市の受付印の日付は、二年前で止まっている。

しばらくそれを見ていた。なんで足が止まったのかは、自分でも分からん。


部屋に戻って、飯にした。

六畳のワンルームに、家具は布団と段ボール箱が三つ。三ヶ月住んで、増えたのは台所の道具だけだ。砥石、雪平鍋、木べら。給料のほとんどは、気づくと道具になっていた。使う当てもないのにな。

明日の予定がないというのは、思っていたより腹に応える。それでも腹は減る。人間はよくできてる。


戸棚には干し肉の欠片と、しなびた人参と、玉葱が半分。米が少し。十分だ。

鍋に湯を沸かし、まず干し肉を戻す。戻し汁は捨てない。あれが出汁になる。戻している間に野菜の皮を剥いて、剥いた皮は小鍋で煮出す。屑の煮汁は明日の雑炊の底に回す。湯は三段で使い回して、洗い物は鍋一つ椀一つで終わるように組む。

千人分でも一人分でも、段取りは変わらない。手が勝手にそう動く。十年、そう動かしてきた手だ。


塩をひとつまみ。味を見て、もうひとつまみの半分。汗をかいた日の塩加減ってやつがある。今日は、たいして汗もかいていないのにな。


湯気が立った。

一瞬だけ、天幕の下にいた。夜明け前の第七兵站隊の炊事場、大鍋が六つ。列は竈の前から闇の先まで延びて、椀を持つ手が湯気の向こうから次々に出てくる。急かす兵はいない。サナダの列は待たせない。そう知られていたからだ。

顔は、もうだいぶ霞んでいる。覚えているのは手だ。剣ダコの手、手綱の手、まだ柔らかい新兵の手。十年で、いったい何度あの手に椀を渡したんだったか。


換気扇の音で、部屋に戻った。ワンルームの台所。鍋は一つ。列はない。


窓際に腰を下ろして、スープを飲んだ。干し肉の塩気が人参の甘さに沁みて、悪くない出来だった。悪くない出来なのに、椀の半分から先が進まなかった。

外を終電が通って、窓が細かく震えた。この時間にまだ飯を食っていない誰かを、昔の俺なら列に並ばせていた。


飲み干して、空の椀の底を見る。

明日から、誰の飯を作ればいい。

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