第29話 夜明け前の千の火
三年間死んでいた商店街の五つの厨房に、同じ夜、一斉に火が入った。
換気扇が回り、窓に湯気が曇り、暗かった通りに明かりの四角が並ぶ。いぐちの厨房、駅前食堂の跡、中華の南天、木村屋の窯、寿司常の仕込み場。煙突と換気扇の数だけ、夜空に白い柱が立った。
街そのものが、今夜は一つの竈だった。
日暮れの最終確認で、小野寺が読み上げた項目は四十二。米、水、燃料、椀、白線、無線、名簿、当番表。全部に「よし」が付いて、最後の一項で声が少しだけ止まった。
「四十二番。いえ、これは項目じゃないですね。みなさん、明日の朝ごはんを、必ず食べてから持ち場についてください。以上です」
配る側が空きっ腹じゃ話にならない、というトメの言い分が、いつの間にか正式な項目になっていた。
米は六百キロ。
袋の山を前にすると、久保田の運搬班が一瞬ひるんだ。ひるんでいいのは最初だけだ。山ってのは、崩す順番さえ決めれば、ただの積み荷になる。
研ぎ順は表にしてある。炊き上がりを朝七時に揃えるための逆算だ。最初の浸水は二十三時、いぐちから始めて、南天、木村屋、寿司常、最後にうちの屋台。米を研ぐ音が、拠点から拠点へ、リレーみたいに駅前を回っていく。
角猪汁の大鍋は十二。火の当番表は一時間交代で、当番の欄には商店街の親父たち、探索者、機構の観測班の名前まで並んでいる。
いぐちの厨房では、トメが白い割烹着で采配を振っていた。三年ぶりの厨房に立つ婆さんは、十も若返って見えた。南天の親父は例の寸胴を二つとも火にかけて、「言っとくが、うちの寸胴で炊いた分が一番うまいからな」と、口を出さない約束を初日から破っていた。ああいう約束は、破られるためにある。
塩むすびの手順書は三十枚刷って、握り手の全員に配った。夜半には手順書の何枚かが汁の飛沫で波打って、字が滲んで、それでも誰も見なくなっていた。手が覚えたからだ。紙ってのは、要らなくなった時が一番いい仕事をした時だ。
トメの帳場は資材の集計、久保田の運搬班はリヤカー六台の点検、小野寺は無線機と要配慮者名簿の最終確認。名簿の中に、あの母子の名前もある。夕方、男の子が「てつだう」と言い張って、椀を数える係を三十分やって、母親の背中で眠った。
深夜零時、最初の味見をした。角猪汁の一番鍋。塩の当たりを見て、味醂をひと垂らし。トメが二口目で「六十五点」と言い、三口目で「七十だね」と直した。うちの合格点は、まだ辛い。辛いままでいい。
「仮眠、取ってくださいね、みなさん。特に配送班。本番は体力戦です」
「そういうあんたが一番寝てないだろう、役所のねえちゃん」
「私は、あと名簿を二回読んだら寝ます」
「その二回を一回にしな」
武流は夕方のうちに寝かせた。明日の朝、いちばん重い仕事をするのはあいつだ。毛布にくるまって雑貨屋の二階で寝ている勇者を、街の誰も特別扱いしなかった。それがこの街の、たぶん一番の強さだった。
夜半、ダンジョン正面に向かう車列が、駅前をゆっくり通過した。
第一討伐部隊。装甲は前と同じに光っていたが、車列の最後尾に、今度は炊事車が一台ついていた。どこかの中古を、大急ぎで都合したんだろう。
約束どおり、俺は部隊の分の握り飯と汁を、久保田のリヤカーで先に届けさせた。受け取りの隊員が「隊長から、確かに、と」とだけ言って敬礼していったと、久保田は妙に感激して帰ってきた。
鏑木本人は、来なかった。並ぶのは終わってからだと言った男だ。あれで筋を通してるつもりなんだろう。なら、こっちも椀を一つ、終わったあとの分まで数に入れておくだけだ。
深夜、仕込みの谷間に、武流が起きてきた。
眠れなかったわけじゃないらしい。時間どおりに起きて、時間どおりに装備を整えて、それから、まっすぐ屋台に来た。
「大将。ひとつ、お願いがあります」
手に、布の包みを持っていた。
棚の奥の、あの包みだった。いつの間に持ち出したのか、文句を言うより先に、武流が包みを解いた。縁の欠けた木の椀が、竈の残り火に照らされた。
「明日——これも、列に並べましょう」
「……おい」
「十年、待ってるんですよ、この椀。大将の列に並んで、受け取りそこねたまま。誰の椀も、並んだ順に受け取れるのが大将の列でしょう。なら、この椀の順番も、もう来ていいはずだ」
言い返す言葉を、俺は探さなかった。
探せば見つかったかもしれないが、探さなかった。
椀を受け取って、布で拭いた。十年拭いてきた通りに。それから、明日の椀の山の、列のいちばん端に置いた。
湯気の向こうで振り返った顔と、大盛りの約束が、竈の火の中で一度だけ揺れて、消えた。回想はもういい。あいつの席は、思い出の中じゃなく、明日の列にある。
「この椀のこと、僕のほかに知ってる人は」
「いない。あんただけだ」
「そうですか」
武流は、列の端の椀を見た。
「なら、明日からは、列に並んだ全員が知ってる椀になりますね。誰の椀かは知らなくても、あそこにある椀だって。それで、いい気がします」
「今度は、全員に行き渡らせる」
「はい。全員です」
武流は頷いて、東の空を見た。稜線の上が、まだ暗い。
夜明け前、地鳴りが今までで一番強くなった。
足の裏に、はっきり分かる震え。吊るした玉杓子が触れ合って、澄んだ音を立てた。仕込みの手が、一瞬だけ止まる。
止まったのは、一瞬だけだった。誰も逃げず、誰も持ち場を離れず、米を研ぐ音と出汁の匂いが、また夜気に戻ってくる。三年前、この街は音に追われて散った。今夜は、音の方へ向かって飯を炊いている。
五つの厨房の窓明かりは、揺れても消えなかった。
無線から小野寺の声がした。観測班からの中継だ。
「活性値、臨界に接近。発生予測、日の出前後。変わらずです」
「了解だ」
広場では、配食の列を作る白線が、街灯の下で乾き始めている。白線の職員が、今夜は自分の判断で引きに来た。三年前に消えかけた白線を引き直した男の、これが二本目の仕事だった。
竈の前に立つ。
大鍋の蓋に手を掛けると、蒸気が、しゅう、と鳴いた。
米の香りが、蓋の縁から夜気に漏れ出す。
「——炊けた」
蓋を開ける。
湯気が、夜明け前の暗い空へ、真っ直ぐに立ち上った。
東の山の稜線が、低く、震えた。




