第28話 同じ地獄の、反対側
その日は、二度目の百人試験を昼のうちに済ませていた。列は一度も詰まらず、赤線の直しは効いていた。あとは前夜の仕込みを待つだけ、という晩に、あの男は来たわけだ。
「真田。訊きに来た」
鏑木は、カウンターの前に立ったまま言った。
「なぜ、俺の部隊は崩れた」
切った側が、切られた男に、敗因を訊きに来た。この男の性分からすれば、これ以上ない白旗だろう。
不思議と、驚きはなかった。付箋だらけの計画書の話を聞いた時から、いつか来る客だという気は、どこかでしていた。分からないことを分からないままにできない目をした男ってのは、遅かれ早かれ、答えのある場所に立つ。
俺は火を落としかけた竈に、薬缶だけ戻した。
「立ってると長くなる。座れ」
鏑木は一拍置いて、丸椅子に腰を下ろした。装備の男が座ると、拾い物の椅子がぎしりと鳴いた。テレビの英雄と、粗大ゴミの椅子。妙な取り合わせだが、うちのカウンターじゃ誰でもあの椅子だ。茶を一杯、前に置く。品書きはもう仕舞ってある。今夜のこれは商売じゃない。
「あんたの遠征の計画書、写しを読んだ。市役所経由で回ってきたんでな」
「感想は」
「攻めの計画としちゃ、一級品だ。行程も、装備も、隊の練度の見積もりも。穴は一つだけだ」
包み紙の裏を一枚広げた。鉛筆で、数字を並べていく。
「二百十人、十四日。飯は一人一日三食で八千八百二十食。米と副食で約六トン、水は飲用だけで八千リットル。調理と洗浄を入れりゃその倍。これを、どの中継点に、何日目に、何箱置くか。あんたの計画書で、この計算に割かれてた紙は、一行だ」
「食糧は各自携行、現地調達を可とする」
「そうだ。六トンの仕事を、一行で済ませた。だから崩れた。それだけだ」
「補給の担当を置けば、防げたのか」
「置くだけじゃ駄目だ。置いた奴の言葉が、装備の言葉と同じ重さで通る机がなきゃ、紙は箱の底で眠る。あんたの部隊にも、積載の計算をやり直せと言った奴がいたはずだぞ」
鏑木の眉が、わずかに動いた。決裁箱の底で眠っていた三通の紙を、この男は査問の場で初めて知ったんだろう。
鏑木は、鉛筆の数字を長いこと見ていた。
「魔物には、負けていない」
「ああ、負けてない。あんたの部隊は強かったよ。装備も練度も一級だ。——ただ、飢えてた。それだけだ」
責める調子は、入れなかった。入れる必要がない。数字ってのは、静かに置くだけで十分に重い。まして相手は、数字の重さを誰より知ってる男だ。軽い数字で殴るより、重い数字を黙って持たせる方が、この男には届く。
薬缶が低く鳴き始めた頃、ずっと黙っていた鏑木が、ぽつりと言った。
「渡って三ヶ月目の冬、俺のいた傭兵団は補給を断たれた」
手前の茶碗を見たまま、抑揚のない声だった。
「配給の列には序列があった。強い者から食う。俺は最後尾にも並ばせてもらえなかった。盗んで食った。殺して、初めて列に入れた。強くなって、先頭に立って、それでようやく飢えなくなった。あんたも、あの飢えを見たはずだ。同じ世界で、同じ戦争にいた」
「見たよ。嫌ってほどな」
盗んで食った、と言った時、鏑木の右手が茶碗の横で一度、固く閉じた。撤退の夜に部下が見たという、あの握り方なんだろう。十九の冬から、この男はずっと、あの拳を解く場所がなかったんだ。
「なら、なぜだ」
鏑木が、初めて顔を上げた。
「なぜあんたは、奪う側にも、先頭に立つ側にもならずに、食わせる側に回った」
薬缶の湯気が、二人の間で揺れた。
「並べない奴が、いたからだ」
それしか、答えはなかった。
「あんたみたいに列に入れない奴を、俺は竈の側から十年見てた。だから俺の列は、誰でも並べる。等級も、序列も、国も関係ねえ。並んだ順に、同じ椀だ。それだけを、十年やってた」
「それだけ、か」
「それだけだ。あんたは飢えから強さを取った。俺は飢えから列を取った。同じ地獄の、反対側だな」
鏑木は目を閉じた。長い息が、一つ。
開いた時、あの数値を読み上げる声の硬さが、抜けていた。
「等級外。測る価値がないと、俺は言った」
「言ったな」
「……測り方を、間違えていたのは、こちらだ」
謝罪の言葉ではなかった。この男の辞書のいちばん近い頁が、それなんだろう。俺は茶を注ぎ足した。それで足りた。
「Xデーの予測は、明々後日の朝だ」
立ち上がりながら、鏑木は言った。
「第一討伐部隊は、ダンジョン正面に出る。防衛戦だ。戦果にはならん。本部の命令でもない。隊長判断だ」
「そうか」
「あんたの計画書の、兵站の頁。あれと同じ精度の防衛計画を、明日までに引く。部隊の飯の段取りも、今度は一行にはしない」
それから鏑木は、懐から折り畳んだ紙を出した。桜台の地図の写しだ。
「一つ、確認したい。防衛線はダンジョン正面。配食拠点は駅前に五つ。抜けた魔物を追う遊撃と、下がる負傷者と、配食の列。この三つの動線が、駅前の北の角で交差する。ここは、どう捌く」
兵站の目だった。二週間前のこの男には、なかった目だ。
「列を割る。汁の列を一本、南に付け替えて、北の角は空けておく。あんたの部隊の帰り道は、その裏に通す」
「なら、いい」
鏑木は地図に短く書き込んで、畳んだ。段取りの話を段取りの言葉でやれる相手ってのは、敵だろうが味方だろうが、悪くないもんだ。
「飯なら、出すぞ。あんたの部隊の分も、計算に入れてある」
鏑木は品書きの仕舞われたカウンターを一瞥して、それから、ほんのわずかに迷った。迷いってものを、この男の顔で初めて見た。
「——並ぶのは、終わってからだ」
背を向けて、街灯の下を歩き去っていく。その背中に、俺は一つだけ声を掛けた。
「鏑木」
足が止まる。
「あんたの部隊、明々後日の朝は、温飯で送り出す。うちの列は、あんたの部下も並べる」
返事はなかった。ただ、歩き出すまでの間が、返事の代わりに少しだけ長かった。
テーブルの上に、茶代が置いてあった。品書きを仕舞った店の、値段のない茶の代金。硬貨は、きっちり百円だった。トメの流儀と同じ筋の通し方を、この男もするらしい。
空を見上げた。晩秋の星が、やけに近い。吐いた息が、今年初めて白かった。
Xデーは、明々後日の朝。空が焼ける前に、竈に火が入る。
十年ぶりの、いくさ支度だった。




