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第27話 飢えた側


査問会の朝、企画管理課長の席は空だった。

体調不良による休暇届。日付は昨日のうちに出されていた。付き合いの長い事務方は、あの届けの意味を全員知っていた。船が沈む日、書類の得意な鼠から先に岸へ上がる。共同で答弁するはずだった資料の束だけが、主のいない机の上で、几帳面に角を揃えて残されていた。

査問室には、鏑木が一人で入った。ノックは一度。背筋は、いつも通りだった。


「大遠征の補給計画について、最終承認者はあなたですね」

「そうだ」

「積載計画の誤りを、出発前に確認する機会はあった。輸送担当の再計算依頼が提出されています。なぜ、確認しなかったのですか」

「兵站は、装備より優先度が低いと判断した」

「その判断の根拠は」

「討伐数が予算を守り、予算が市民を守る。装備は討伐数に直結する。兵站は——」

言葉が、そこで一度止まった。査問官が顔を上げた。

「兵站は?」

「……数値化していなかった。判断の外に、置いていた」

「もう一点。離脱した十九名について、部隊長として、どう考えますか」

「訓練は十分だった。装備も。彼らの技量に問題は」

「技量ではなく、彼ら自身について訊いています」

今度の沈黙は、長かった。査問官は答えを待たず、次の書類をめくった。答えられなかったこと自体が、記録に残った。

査問官の手元には、数字が並んでいた。討伐数、予定比百十二パーセントで前半終了。後半、隊の移動速度低下率、四割。規律違反、七件。中途離脱と療養、十九名。そして、机の端にもう一束。遠征後に提出された、退職願。八枚。

鏑木が十年かけて積み上げた数字の山が、今日は全部、向こう側の席に積んであった。

彼は抗弁しなかった。数字は正しい。正しい数字に殺されるなら、それは数字の側の裏切りじゃない。読み方を間違えた人間の責任だ。

処分は保留。防衛戦への部隊投入をもって再評価とする。それが結論だった。防衛戦は戦果にならない。つまり、再評価の見込みは薄い。誰が聞いても、そういう文面だった。


査問室を出た廊下に、部下が三人、立っていた。

退職願を出していない側の、若手たちだった。

「隊長。防衛戦の配置、自分らも入ってます。正面、ですよね」

「そうだ。戦果にはならん」

「知ってます」

それだけ言って、三人は敬礼して持ち場に戻った。敬礼の角度は、遠征前と変わっていなかった。八枚の退職願の裏に、残った側がいる。その計算を、鏑木は今まで一度もしたことがなかった。

廊下の窓から、鏑木は一度だけ、外を見た。

遠くに、桜台の山の稜線。

その手前の駅前に、細く、湯気が立っている。


 ◇


十九歳の冬を、鏑木は今でも夢に見る。

渡って三ヶ月目だった。配属された傭兵団は敗走の最中で、補給は十日前から途絶えていた。

配給の列には、序列があった。強い者が先頭に立ち、強い者の取り巻きが続き、渡ってきたばかりの言葉も分からない少年は、列の最後尾にすら並ばせてもらえなかった。

パンの配給が終わる。空の籠が転がる。誰も少年を見ない。雪の上に落ちたパンの欠片を、夜中に指でほじって拾った。そういう冬だった。

三日目の夜、少年は倒れた兵の懐から干し肉を盗んで、初めて生き延びた。五日目、剣を拾って魔物を一体殺して、初めて配給の列の末尾に入れてもらえた。ひと月後、隊で五本の指に入る剣士になって、初めて列の先頭に立った。

先頭のパンは、温かくはなかった。それでも、確実だった。確実というものを、少年はあの冬に初めて手に入れた。

強くなければ、食えない。

食うためには、強さの序列を上がるしかない。列は奪い合うもので、順番は力の別名だった。

少年はそう学んで、十年、その通りに生きた。等級。討伐数。予算。全部、あの配給の列の続きだった。強さを数字にして積み上げれば、二度と、あの列の外には立たない。


——だから、あの男が分からない。

夜の執務室で、鏑木は付箋だらけの計画書を見下ろしていた。

同じ世界にいたはずだ。同じ飢えを見たはずだ。なのにあの男は、列の先頭を取り合う側じゃなく、列そのものを作る側に回った。誰でも並べる列を。抜かされない列を。

等級外。測る価値のない男。

その男の作った列に、探索者が並び、職員が並び、街が並んでいる。


 ◇


「新米、入ったっすよ。作戦用の先行分」

屋台では、久保田が米袋を担ぎ込んでいた。俺は一掴み、掌に取って、二粒噛んだ。

「二等の混じりが少しあるな。まあ、炊き方で立つ範囲だ」

「それ、噛んで分かるんすか」

「分かる。硬さと甘みの出方だ。混じりの割合で浸水の時間を変える。当日は六百キロを五拠点で分けて研ぐ。研ぎ順と浸水の開始時刻は、炊き上がりが朝七時に揃うよう逆算して表にする。表は明日、拠点ごとに配る」

「六百キロの逆算表って。大将、それ、頭の中でできてるんすか」

「千人分を三食、十年だぞ。これでも今回は、湯の心配がないだけ楽なんだ」

久保田は米袋を担ぎ直して、なんだか誇らしげな顔で倉庫代わりの雑貨屋へ運んでいった。担ぐ足取りで分かる。あいつはもう、当日の自分の持ち場が楽しみで仕方ないんだ。

夜、店じまいの頃に、武流がふらりと来て、閉店後の茶を飲んでいった。帰り際、少しだけ声を落とした。

「鏑木さんの査問、今日だったそうです」

「そうか」

「僕、あの人と何度か共同任務やってるんです。強いですよ、本当に。でも、あの人の遠征、いつも無茶なんです。まるで、何かに追われてるみたいに。後ろから飢えた犬に追われてる走り方を、剣士は時々するんです」

「それで、あんたはどうしたいんだ」

「僕ですか。僕は、あの人と同じ側で戦ってみたいですよ。一度くらい。ライバル扱いされるの、実はずっと窮屈だったので」

武流は答えを待たずに、夜の中へ帰っていった。


火を落として、暖簾をしまって、鍵を掛けようとした時だった。

気配より先に、匂いで分かった。夜気の中に、油と鉄の匂い。手入れされた装備の匂いってのは、十年嗅いだ身体が勝手に覚えている。

街灯の下に、人影がひとつ立っていた。

討伐部隊の制服。夜目にも分かる、圧のある立ち姿。

鏑木蓮司が、閉店後の屋台の前に、一人で立っていた。

列はない。客もいない。摘発の書面を持ってきた夜とは、立っている場所が半歩だけ、カウンターに近かった。

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