第26話 帳簿にない作戦
翌日の昼、機構県支部の渉外課に、一枚の回覧が回ってきた。
広報課が起案した、報道発表資料の下書き。表題を見て、小野寺は手を止めた。
「機構主導・地域炊き出し支援作戦(仮)」
主導。その二文字に、朱の丸がついている。起案経路を遡ると、資料の元は企画管理課だった。予算欄は空白。人員欄も空白。機構が出すのは、名前だけ。街が二週間かけて積んだ段取りの上に、判子一つで乗る算段だった。
小野寺は回覧を持って、階段を三段飛ばしで上がった。
「ああ、小野寺さん。ちょうどよかった」
課長席の柴田は、湯呑みを片手に、悪びれもしなかった。査問の日程が貼り出された掲示板が、廊下の向こうに見えている。あの日程に自分の名がないことを、この人はもう確認済みなんだろう。
「桜台の計画、拝見しましたよ。実によく出来ている。ですから、機構の後援と発表した方が、住民の皆さんも安心でしょう。ええ、信用の問題です」
「後援ではなく、主導と書いてありますが」
「言葉の綾です。それにね、小野寺さん。機構の名前が入れば、本部の心証も違う。心証が予算を守り、予算が皆さんを守るんですよ」
どこかで聞いた理屈の、出来の悪い写しだった。本家の男は数字に殉じて査問室にいる。写しの男は、数字も出さずに名前だけ欲しがっている。
綾ではない、と小野寺は知っていた。氾濫が軽く済めば「機構の指導の成果」。もし失敗すれば「民間の自主活動を機構は把握していたが、主体ではなかった」。どちらに転んでも機構が勝つ作文——遠征の失敗で傷んだ看板を、街の鍋で塗り直す算段だ。
「課長。三点、確認させてください」
小野寺は回覧を机に置いて、指を一本立てた。
「一点目。この作戦の法的根拠は、市の災害対策基本計画と、屋台への特例許可です。どちらも機構の管轄外。機構が主導を名乗る根拠条文を、教えてください」
「それは、広い意味での防災協力という」
「条文番号で、お願いします」
柴田の眼鏡が下がった。二本目の指が立つ。
「二点目。主導を名乗るなら、応分の資源拠出が要ります。予算、人員、物資。この発表資料、全部空欄ですが、いくら出すんですか」
「予算措置は、今後の検討課題で」
「三点目」
小野寺は、鞄から別の綴りを出した。
「遠征前、輸送担当が提出した積載重量の再計算依頼。体調不良報告の続報。観測班の週次上申。三通とも、企画管理課の決裁箱で止まっていた記録があります。防災に関わる文書の取り扱いとして、然るべき場で説明されるべき事案かと。——ええ、規則ですので」
自分の口癖を、二度目に返された柴田は、今度は口も開かなかった。
「課長は以前、おっしゃいましたよね。数字にならない献身は存在しないのと同じだと。あの言い方を借りるなら」
小野寺は、回覧の「主導」の二文字を指した。
「この作戦、機構の帳簿のどこにも存在しませんが」
裁定は、支部長室で下された。
支部長は回覧と小野寺の資料を五分見比べて、老いた声で短く言った。
「機構は観測データの提供のみ。名義は市と商店会。……小野寺くん」
「はい」
「三通の決裁遅延の件は、預かる。時期を見て、然るべく処理する。それでいいか」
「規則どおりで、あれば」
「規則どおりにやる。この建物で今、いちばん強い言葉はそれらしいからな」
報道発表の下書きは、起案ごと取り下げられた。廊下に出た小野寺は、階段の踊り場で一度だけ、小さく拳を握った。誰も見ていなかった。見ていなくても、握っていい拳だった。
◇
屋台では、俺が握り飯と格闘していた。
正確には、握り飯の「手順書」とだ。
「塩は飯二百グラムに二グラム。指でやるな、匙で量れ。握りは三角に二回半。それ以上握ると硬くなる」
目の前で、久保田と槍持ちと眼鏡が、ぎこちなく飯を握っている。本番の握り手は素人が三十人。俺の手癖のままじゃ、誰にも渡せない。塩ふたつまみ、なんて書いても、指の太さは人によって違う。だから全部、匙と秤の言葉に置き直す。
「大将のいつもの塩加減と、違う気がするっす」
「いつものは俺の手の癖だ。手順書の味は、誰が握っても八十点の味にしてある。三十人の百点を狙うより、三十人の八十点を揃える方が、一万二千の腹は満ちる」
最初の一時間、三人の握り飯は散々だった。久保田のは力みすぎて餅になり、槍持ちのは緩すぎて椀の中で崩れ、眼鏡のだけが妙に整っていた。トメが検定係で、合格したものにだけ「いぐち」の判を押した紙を敷く。
「餅屋を開く気かい、あんたは」
「うっす。握り直すっす」
二時間目、久保田の五個目が判をもらった。番頭は帳面に「本日の合格、自分五・槍七・眼鏡十二」と正直に書いて、しばらく眼鏡に敬語を使っていた。手順書ってのは、こうやって人から人へ渡っていく。俺の手癖のままなら、渡せる先は一人もいなかった。
夕方、支部から戻った小野寺が、勝敗を短く報告した。トメが「上出来だよ」と茶を注ぎ、久保田が不格好な握り飯を差し出して、小野寺はそれを二口で食った。
「役所の中の戦は、これで終わりです。あとは、当日の朝だけ」
夜の営業では、屋台の柱に一枚、紙が増えた。当日の役割表だ。拠点ごとの火の当番、握り手、配送班、列の整理係。名前の入った常連が次々に自分の欄を確かめに来て、入っていない客が「俺の名前がねえぞ」と帳場に直訴する騒ぎになった。
「志願は番頭に言いな。ただし当日の朝は、あんたらもまず食う側だよ。配る側が空きっ腹じゃ、話にならないからね」
トメの采配で、役割表は夜のうちに二枚目に増えた。守られる側と守る側の境目が、この駅前では、もうほとんど溶けていた。
◇
同じ夜、機構県支部の討伐部隊執務室。
明かりは一つだけ点いていた。
机の上に、桜台の計画書の写し。頁は兵站の項で開かれている。鍋の数。火力の配分。列の設計。配送の動線。
鏑木は、それを黙って読んでいた。
一枚めくり、戻り、また一枚めくる。手元の付箋は、いつの間にか一束が空になっていた。兵站の頁だけ、付箋の縁で黄色く膨らんでいる。
遠征で崩れた自分の部隊の計画書と、等級外の男の計画書。
片方には兵站の欄が一行しかなく、片方は兵站の紙でできていた。
二つの紙の間にあるものを、鏑木はまだ、言葉にできずにいた。




