第30話 俺の列は、もう誰も死なせに行かない
夜明けとともに、防災無線が鳴った。
三年前、この街に避難を告げたスピーカーが、今朝は違う言葉を割れた音で流している。
「桜台地区のみなさん、朝飯作戦を開始します。配食は駅前広場、および各戸配送。温かいうちに、お召し上がりください」
サイレンの代わりに、街中に味噌汁と飯の匂いが立った。三年前と同じスピーカー、三年前と同じ朝の冷気。中身だけが、まるで違う朝だった。
広場の列は、十四本。
よそう係が椀に飯を張り、渡す係が盆に載せる。一人、四秒。試験で赤線を引いた三箇所は、今朝は一度も詰まらなかった。年寄りと子どもの列は椅子まで十歩、湯気が顔に届く距離に卓を置いた。
探索者の隣に仮設住宅の婆さんが並び、背広が子どもの歩幅に合わせて詰め、B級の兄さんが年寄りの盆を持ってやる。等級も、住まいも、三年前にどっち側だったかも関係ない。並んだ順に、同じ椀だ。
握り手三十人の中で、久保田の仲間の眼鏡が一番速かった。手順書どおり、三角に二回半。八十点の味が、湯気の数だけ揃っていく。
リヤカー六台が路地へ散っていく。要配慮者名簿の全戸に、冷めない朝飯が届いていく。配送班の先頭で、久保田が声を張った。
「かまど屋でーす! 朝飯、お持ちしましたー!」
シャッターの二階から、三年ぶりに窓が開く音がした。
パン粥の婆さんの玄関先では、椀を受け取った皺だらけの手が、配送係の若い手を、しばらく離さなかったという。歯のない口で何か言って、若いのは何度も頷いて、次の家へ走った。名簿の紙の上の一行一行に、ああいう玄関があるんだ。
日の出と同時に、山が鳴った。
氾濫。
広場の空気が一瞬硬くなり、椀を持つ手が止まりかけた、その時。
「規模、来ます——観測予測の、三割!」
無線を握った小野寺の声が、広場に通った。
「三割です! 想定の、三分の一!」
観測班の若いのが、計器を抱えたまま何度も数字を読み直しているのが、遠目にも分かった。三年間、右肩上がりしか見てこなかった男の目の前で、曲線が初めて頭を下げたんだ。読み直したくもなるだろう。
飢えた土地に、魔は湧く。なら、腹と心の満ちた街に湧く分は、これだけ減る。
理屈は小野寺の紙の上にある。俺が知ってるのは、もっと単純なことだ。湯気の立ってる陣は、落ちない。
討伐の音は、遠かった。正面を鏑木の部隊が割らせず、抜けた分を武流が遊撃で潰していく。一度だけ、屋根の稜線を影が跳ぶのが見えた。速いなんてもんじゃない。あのチビが、と思う間もなく、影は山側へ消えた。
剣の仕事は剣に任せた。俺は竈の前から、一歩も動かない。椀を張って、列に渡す。汁が減れば次の鍋、飯が減れば次の櫃。列の長さを目で測って、鍋の仕掛かりを組み替える。千人の列を回した手が、一万二千の朝を回していく。それが俺の持ち場で、俺の戦だ。
一時間半で、山は静かになった。
泥だらけの討伐部隊が駅前に戻ってきた時、広場の列から、自然に拍手が起きた。
討伐ってものが、街の目の前で「守り」として働いたのを、桜台は初めて見たんだ。若い隊員たちが、泥の顔で戸惑って、それから照れくさそうに整列を解いた。解いた足が、そのまま列の最後尾に向かう。うちの炊事車の飯は、夜明け前に食い切っている。
その列の、一番後ろに。
鏑木蓮司が、並んだ。
部下を全員先に並ばせて、自分は最後尾。順番が来るまで、きっかり二十分。列の誰も譲らず、あの男も抜かさなかった。
カウンターの前に立った鏑木に、俺は椀を張った。炊き立ての飯、角猪汁、漬物。全員と同じ、同じ椀だ。
鏑木は立ったまま、黙って食った。
汁を飲み干して、飯を最後のひと粒まで食って、長い沈黙のあと、一言だけ言った。
「……うまい」
「そうか」
それだけだった。それで、全部だった。
列の後ろの方に、ばつの悪そうな顔がもう一つ、小さく並んでいた。柴田だった。誰も咎めず、誰も譲らず、順番どおりに椀が渡った。うちの列は、そういう列だ。
「真田さん! 本部から通達です!」
小野寺が無線片手に駆けてきて、紙を読み上げた。
「後方支援技能に関する等級認定制度の新設を検討開始。仮称、兵站等級。第一号議案として、次期制度改正に上程!」
広場がどよめいた。トメが「今さらだよ」と鼻で笑い、笑いながら、手の甲で目元を拭った。二ヶ月前、会議室で三行に畳まれた十年に、制度の方が追いついてきた朝だった。
「兵站等級ができたら、大将、何級なんすかね」
「さあな。測ってもらう気もねえが」
「S級っすよ、絶対。あ、でも大将、書類書けないんだった」
「番頭が書くんだよ、そういうのは」
列のあちこちで、椀を持ったまま笑い声が上がった。観測班の三人が計器そっちのけで飯をかき込み、薬局の主人が「今日は店を開けるよ、三年ぶりの書き入れ時だ」と腕まくりをしていた。
配食の山が越えた頃、トメが風呂敷包みを抱えてきた。
解くと、藍色に白抜きの布が出てきた。糊の利いた「いぐち」の暖簾。
「うちの店はもう畳んだ。けどね、暖簾ってのは、湯気のあるとこに掛かるもんなんだよ。仕舞っとくのは、もう終わりだ」
トメは背伸びして、かまど屋の軒にそれを掛けた。三年ぶりの暖簾が、朝の風に揺れた。
「いいのか。いぐちの名前だぞ」
「いいんだよ。名前ってのは、暖簾と一緒でね。湯気に当ててないと、死んじまうんだ」
朝日が商店街の屋根を越えて、広場に届いた。湯気の柱が、光の中で一本ずつ金色になった。
「あしたも、あるー?」
列の中から、あの母子の男の子が椀を掲げて叫んだ。避難しなかった母子だ。明るい駅前を、あの子は今朝、生まれて初めて見ている。
「毎日やってる」
今度は、半歩も誤魔化さずに言えた。
最後に、俺は椀の列の端から、あの木の椀を取った。
飯をよそい、汁を張る。大盛りだ。約束だからな。
湯気の立つ椀を、カウンターのいちばんいい席に置いた。隣に武流が立って、静かに言った。
「行き渡りましたね。——全員に」
「ああ」
十年前の朝、俺の列で待たせたまま、送り出した奴がいた。
今朝、この街の全員が、俺の列で温かい飯を受け取った。縁の欠けた椀にも、湯気が立っている。
俺の列は、もう誰も死なせに行かない。
駅前に、うまそうな匂いと、椀の触れ合う音と、人の声が満ちている。
それがこの街の、新しい朝の音だ。
(完)




