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第24話 千人の祈り


カウンターに、同じ鍋が二つ並んだ。

同じ寸胴、同じおでん、同じ時刻に火を止めた。違いは一つだけ。片方は俺が火加減を見て、片方は小野寺が計時して仕込んだ。

「六時間前に火を止めました。計測します」

小野寺が温度計を差す。俺の鍋、七十一度。小野寺の鍋、三十九度。

帳場ではトメが、久保田と眼鏡の荷運びまで呼び込んで、固唾を呑んで見ていた。計測は儀式めいていて、温度計を読み上げる小野寺の声だけが響いた。

「三回やって、三回ともこうでした。仕込みは同じ手順、同じ材料、火加減の指示も私が数字で出しました。違うのは、鍋の前に立った人間だけ。鍋の差でも、置き場所の差でもない。真田さんが火を見た鍋だけが、冷めないんです」

「マジっすか。大将、それ、能力ってやつじゃ」

「静かにおしよ」

トメが久保田の頭を軽くはたいて、けれど自分の目も、湯気から離れていなかった。

湯気の立ち方が、たしかに違った。並べて見せられると、言い訳のしようがない。三十八年生きてきて、自分の鍋を疑ったことは一度もなかった。疑う理由がなかったからだ。便利は、疑われない。

「昔からこうだ。便利な癖だと」

「癖で物理は曲がりません」

「鍋の質かと」

「同じ鍋です。今朝、私が二つ買ってきました。レシートあります」

逃げ道を、先回りで全部塞いでから実験する。役所の人間の悪い癖で、いい仕事だった。

小野寺はノートを開いた。

「渡り人の帰還者には、向こうで身についた力が残る例が確認されています。戦闘職は身体強化。認定試験で測ってるのは、まさにそれです。で、私、調べました。機構の資料室で、渡り人の力に関する記録を全部。向こうの世界の言葉で、こう呼ぶそうですね。手業(てわざ)、と」

「手業」

聞き覚えはあった。向こうの古参兵が、時々そんな言葉を使っていた。十年勤めた鍛冶の手業、二十年勤めた織り手の手業。年季の入った職人の腕を指す、それだけの言葉だと思っていた。

「ただの技術の話じゃないんです。文献にはこうあります。十年を超えて一つの職に祈りを注がれた者は、その祈りの形を身に宿す、と」

「祈り?」

「はい。本人の祈りじゃありません。周りの、他人の祈りです」

その時、屋台の外から声がした。

「その話、僕が引き取っていいですか」

武流だった。引っ越しの挨拶に来たと言って、カウンターの荷物を置いて、それから、静かに続けた。

「向こうの神官学の基礎です。手業は『その人が十年間、いちばん多く祈られたこと』の形になる。剣士が身体強化を宿すのは、周りが『あいつの剣が折れませんように』と祈るからです。で、大将」

武流は、湯気の立ち続ける鍋を見た。

「兵站隊の千人が、毎晩、何を祈ってたか分かりますか。僕は列にいたから知ってます。明日も温かい飯が食えますように、です。戦勝祈願より先に、みんな、それを祈るんです。腹が減ってると、勝利より先に飯なんですよ。千人が、三食、十年」

思い出す声が、あった。

夜の炊事場の外で、時々、祈りの声を聞いた。従軍神官の唱和のあと、兵たちが銘々に付け足す、短い私語みたいな祈り。家族の名前。戦友の傷。それから、確かに、飯。明日も、温かいのが食えますように。俺はそれを、竈の火を落としながら、湯気の残りの中で聞いていた。祈られてるのが竈だとも、まして俺だとも、考えたことは一度もなかった。

小野寺が、静かに締めた。

「真田さんの手業は『竈の火』。あなたが火を見た料理は、冷めにくく、傷みにくい。それは、千人の兵が十年祈り続けた祈りの、形なんです」


しばらく、誰も喋らなかった。

俺は、鍋を磨いた。

磨く必要のない鍋だった。今夜はもう仕舞うだけの鍋だ。それでも手が勝手に布巾を取って、鍋肌を拭いていた。拭きながら、いろんな手を思い出していた。椀を差し出す剣ダコの手。手綱の手。新兵の柔らかい手。泥だらけで謝ってた、チビの手。

等級外。数値化可能な実績なし。紙の上で三行だった十年が——鍋の温度の中に、ずっと残っていた。

誰にも数えられなかっただけで、千人が数えていた。

「あんたの十年は、ちゃんとここにあるじゃないか」

トメが帳場から言った。いつもの、べらんめえの調子のままで。

「書類にゃ載らなくてもさ。千人が証人で、湯気が証文だ。こんな確かな十年、そうそうあるもんじゃないよ」

「……ん」

それしか出なかった。鍋に向かって言ったから、誰への返事かも分からなかったろう。それでよかった。

久保田が洟をすすった。お前が泣くのか、と誰かが笑って、湿った空気が少しだけ軽くなった。


翌日の夜、話は一気に組み上がった。

小野寺が段ボールの裏に、太いペンで線を引いていく。

「整理します。一つ。魔素は欠乏に引かれる。飢え、孤独、見捨てられた土地。三年前から桜台は『飢えた街』で、だから活性値が上がり続けている。二つ。共食は欠乏を埋める。三年前の炊き出しの十三週、実際に数字が止まった。で、三つ目」

ペンが、俺で止まった。

「真田さんの竈の火なら、温かい飯を、冷めないまま、街の隅々まで配れる。保存も利くから、当日の朝に全戸へ届けられる」

「つまり、どういうことっすか」

久保田の問いに、小野寺は一度息を吸って、言い切った。

「戦力で氾濫を止められないなら、氾濫そのものを小さくする。Xデーの朝、街の全員に、温かい朝飯を食べさせるんです」

「それで、氾濫が消えるんすか」

「消えません。たぶん、減るだけです。理屈どおりなら、街の飢えに引かれていた分が、来なくなる。残りは」

「残りは、僕の仕事です」

武流が静かに引き取った。

「規模が減るなら、剣の算盤が立つ。守り切れる数字になる。大将、これ、竈と剣の共同作戦ですよ。あの陣と同じだ」

車座の理屈。夜襲の少ない陣。飢えた街の、腹の底。

バラバラだった十年の欠片が、頭の中で一本の段取りに撚り合わさっていくのが分かった。人数、鍋の数、火力、動線。考えるより先に、手が算盤を弾き始めている。

俺はノートの端に、数字を一つ書いた。

一万二千。桜台駅周辺の、人口だ。仮設も、独居も、氾濫の年に生まれたチビも、全部入れた数だ。

「戦えない俺にも、できる戦があった。——千人分どころじゃねえぞ、おい。街の全員だ」

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