第23話 あの日の椀の温度
翌日の営業は、妙に手際よく終わった。
トメが早めに品切れの札を出し、久保田が残りの客を、追い立てるでもなくいつの間にか綺麗に捌けさせていた。二人とも、今夜の約束の中身は知らない。知らないまま、閉店後の屋台に静かな時間を空けて、何も言わずに帰っていった。ああいう気の利かせ方は、教えてできるもんじゃない。
一人になった屋台で、俺は二人分の飯を炊いた。
麦粥じゃない。白い飯と、味噌汁と、漬物だ。
約束どおりに現れた武流は、カウンターの膳を見て、少しだけ首を傾げた。
「今夜は、こっちの飯なんですね」
「ああ」
椀に飯をよそいながら、理由は短く言った。
「あいつは、日本の飯を食ったことがねえ。あいつの話を、あいつの知らねえ飯でするのも妙な話だが、俺とお前が食うのは、こっちの飯でいい。あいつの分まで、こっちで生きてる二人だからな」
武流は何も言わずに箸を取った。いただきます、の声が、いつもより低かった。
食い終えてから、武流は話し始めた。
「最終決戦の朝の炊き出し、覚えてますよね」
「千人分だ。忘れるわけがない」
「僕、あの列にいました。ロイドの、すぐ隣に」
夜明け前の、あの炊事場。大鍋が六つ。松明の火。出撃前の千人の列は、いつもより静かで、いつもより長かった。
「ロイドの奴、列に並んでる間、ずっと喋ってたんです。この戦が終わったら国に帰って、母親に竈を直してやるんだって。それと、大将の粥の作り方を覚えて帰るんだって。無理だよって笑ったら、あいつ、大真面目に言うんです。サナダの列に一年並んだんだから、味は舌が覚えてる、って」
「知ってるよ」
声が、思ったより掠れた。
「あいつ、配食の後によく竈を覗きに来てた。麦の量だの、火の順番だの、しつこく訊いてな。新兵の癖に竈に近づきすぎるから、二度ほど叱った。三度目からは、叱らないで教えた。覚えのいい奴だった」
「はい。列でそれ、自慢してました。炊事長に直に教わってるの、部隊で俺だけだって」
知らなかった。教えた側ってのは、いつも半分しか知らない。
手の中の湯呑みが、重くなった。
「順番が来る、三人前でした。伝令が走ってきて、第三梯団、前へ、って。あいつの隊です。ロイドは列を出ました。出る時に、振り返って、笑って言ったんです」
分かっている。その先は、聞かなくても分かっている。それでも俺は、遮らなかった。
「『戻ったら、大盛りにしてもらう』って」
竈の火が、ぱち、と鳴った。
「僕は、そのまま列に残りました。僕の隊の出撃は次の梯団だったから。順番が来て、椀を受け取って。あの朝の粥、熱かったんですよ。手のひらが痛いくらい。僕はそれを食って、出撃して、生きて帰ってきた。ロイドは食わずに出て、帰ってきませんでした」
武流は、両手を膝に置いた。
「ずっと、思ってました。僕は、あいつの分まで受け取っちまったんじゃないかって。あの椀の温度で、僕だけが生きて帰ったんじゃないかって」
「それは違う」
気がついたら、言っていた。
「椀は、誰かの分の代わりに渡るもんじゃねえ。並んだ奴に、並んだ順に渡る。それだけだ。お前が受け取ったのはお前の椀で、あいつの椀は——」
言葉が、そこで止まった。
あいつの椀は、今も棚の奥にある。受け取られなかった一杯のまま、十年と、四ヶ月と、こっちの二ヶ月ぶん、ずっと。
「大将。俺の列で待たせた奴を、二度と死なせない。そう思ってるでしょう」
声のトーンが変わっていた。図星を突く声じゃない。同じ荷物を担いだ人間の声だった。
「……なんで分かる」
「僕も似たようなことを、十年思ってきたからです。言い方が違うだけで」
夜の駅前は静かだった。終電はとっくに出た後で、点滅する街灯と、竈の残り火だけが起きていた。
「大将のせいじゃない、って言うつもりはないんです」
武流が言った。
「僕も十年、自分のせいじゃないって言葉じゃ、一歩も動けなかったから。ただ、あの朝の千人の中で、大将の椀で送り出されたことを悔やんでる奴は、一人もいません。それだけは、列にいた僕が保証します」
保証、という言葉を、勇者は討伐の戦果みたいに真っ直ぐ言った。俺は湯呑みの茶を飲み干した。飲み干すのに、少し時間をかけた。
「誰の飯を作ればいいのか分からねえまま、こっちに帰ってきた。屋台を始めて、客が付いて、それでもどこかで、ずっと考えてた。俺の列は、もう二度と、誰かを待たせたまま送り出さねえ。そのためにやってるんだと思う。この店も、たぶん、全部」
初めて言葉にした。言葉にしたら、腹の底で十年煮詰まってたものが、少しだけ緩んだ。
「大将。氾濫の話、しましょう」
武流が、顔を上げた。勇者の顔になっていた。
「機構の増援は出ません。本部の判断は変わらない。だから、判断の要らない方法にします。僕は明日から、桜台に住みます。住民登録も移す。等級Sが個人の意思でどこに住もうと、機構には止められませんから。住民の自衛を住民が手伝うのは、届け出も要りません」
「力技だな」
「肩書きの使い道なんて、こういう時のためですよ」
「おい。あんた、機構の看板だろう」
「看板は返上しませんよ。看板のまま、ここに立ちます。その方が効くので」
それから武流は、まっすぐ俺を見て言った。
「戦力の計算は、正直、厳しいです。三年前と同等の規模なら、僕と、再編中の部隊の残りで、ぎりぎり。それ以上なら、どこかを捨てる判断になる。でも、それは僕の仕事です。剣の算盤は、僕が弾く」
そこで武流は、少しだけ、あの炊事場のチビの顔に戻った。
「討伐は、僕がやります。氾濫が来たら、剣のことは全部、僕に任せてください。だから大将は、炊いててください。あの頃と、同じで」
竈と、剣。
向こうの十年、俺たちの陣はそれで回っていた。剣が外を守り、竈が中を守る。どっちが欠けても陣は落ちる。その分業が、日本の駅前で、もう一度組み上がった。
「おう。任せた」
「任されました」
握手も何もなかった。要らなかった。同じ釜の飯の取り決めに、判子は要らない。
武流を見送って、鍋を仕舞いかけた時、駆けてくる足音がした。
小野寺だった。自転車を放り出すように停めて、ノートを胸に抱えて、息を切らしている。
「真田さん——わかったんです。あなたの鍋が、冷めない理由」




