第22話 あのチビの武流か
「注文、いいですか」
約束の夜、暖簾をしまった屋台の前で、フードの大男は言った。
「麦粥と、豆の煮込み。あの朝と、同じやつを」
手が、一瞬止まった。
あの朝と同じやつ。品書きに載せたことのない献立を、この男は二度目に正確に言い当てた。いや、言い当てたんじゃない。知っているんだ。麦と米の割合も、豆の煮込みに干し肉が入ることも、注文の仕方が、食ったことのある人間のそれだった。
今日一日、俺は柄にもなく落ち着かなかった。賄いの仕込みを、気づけばいつもの倍にしていた。誰が来るにせよ、大男の大盛り三杯ぶんは要る。そういう計算だと自分に言い聞かせて、麦を多めに研いだ。手前の腹の内ってのは、仕込みの量に一番正直に出る。
「まあ、座れ。話は食ってからだ」
俺は黙って米を研いだ。詮索しないのが流儀だと言ったのは俺だ。ただ、今夜の客が詮索される側として来たことくらいは、フードの上からでも分かった。
二人分の麦粥と豆の煮込みを作って、並んで食った。
食っている間、どちらも喋らなかった。喋らないのに、気詰まりじゃない。同じ釜の飯ってやつの効き目は、十年経っても切れないらしい。豆の煮込みの湯気が二人分、夜の駅前に並んで立った。
男は今夜も、急がず、零さず、椀に飯粒ひとつ残さなかった。食い終えて、椀を置いて、それから、フードに手をかけた。
「ごちそうさまでした。それと、お久しぶりです。炊事長」
フードの下から出てきたのは、テレビで見ない日のない顔だった。
機構の看板。戦闘等級S。単独討伐記録保持者。「勇者」神代武流。
物陰で、がたん、と派手な音がした。振り向くと、片付けを口実に残っていた久保田が、腰を抜かして山積みの笊に突っ込んでいた。
「か、かか、神代武流。ほんものの。え、勇者。なんで、うちの屋台に」
「久保田。飯が冷めるような騒ぎ方をするな」
「もう食い終わってるっすよ!」
久保田は笊の山から這い出して、握手を求めかけて、手が泥だらけなのに気づいて引っ込めて、結局、直立不動で頭だけ下げた。
「じ、自分、D級の久保田っす。あの、いつも、どうも」
「知ってます。番頭さんですよね。帳面の字、きれいで感心してました」
勇者に帳面を褒められた番頭は、その場で湯気が出そうな顔になった。
武流は、腰を抜かした久保田に律儀に頭を下げてから、話し始めた。
「僕、大接続の時、十八だったんです。部活の遠征帰りで、駅ごと門に呑まれて。気がついたら向こうの王国で、言葉も分からない、剣も持ったことがない、ただの高校生で」
「そうか。あんた、渡りの口か」
「最初の二年、僕がどこにいたか、大将は覚えてないですよね。第七兵站隊です。炊事場の下働き。水汲みと、薪割りと、芋の皮むき」
記憶の底を、さらった。
兵站隊の下働きは、入れ替わりが激しい。顔より先に、手を覚えている。皮むきの下手な手、水桶を担ぐ細い肩。それから、配食の列に横入りして、古参に蹴っ飛ばされて泥だらけになった、日本語で謝る妙なガキ。
「待て。あんた、まさか」
「思い出しました?」
「列に横入りして蹴っ飛ばされてた、あのチビの武流か」
「そのチビです」
勇者は、嬉しそうに笑った。テレビで見る顔より、ずっと若い笑い方だった。
「あの時、大将、蹴っ飛ばした古参を叱らないで、僕に言ったんですよ。『うちの列は誰でも並べる。だから、誰も抜かせない』って。僕に飯の並び方を教えたのは、大将です。というか、あっちの世界の生き方を教わったのは、あの炊事場ですよ」
武流は自分の手のひらを開いて見せた。剣ダコの分厚い手だ。
「この手、最初のマメは薪割りです。皮がむけて泣きそうになってたら、大将が自分の手を見せてくれた。竈ダコだらけの手を。『手は嘘をつかねえ。十年経ったら、あんたの手があんたの職業だ』って。……その通りになりました。剣でしたけど」
「言った覚えはねえがな」
「言った方は忘れるんですよ、そういうのは」
勇者になってからも、と武流は続けた。
「験担ぎで、出撃の朝は大将の列に並んでました。兜で顔を隠して。麦粥を食って出た討伐は、一度もしくじってません。気づいてました?」
「気づくか。兜をかぶった客の顔なんか、いちいち見ねえよ」
「ですよね。でも僕は、ずっと見てました。列の先の、湯気の向こうの大将を」
帰還してから、と武流は続けた。
「機構に祭り上げられて、テレビに出て、討伐して。で、ある日、探索者の間の噂を聞いたんです。桜台の駅前に、角猪と彷徨茸を出す屋台があるって。角猪の血抜きと、彷徨茸の毒抜きができる人間なんて、こっちの世界に何人もいるはずがない。まさかと思って、来てみたら」
「まさかだったわけだ」
「一口で分かりました。世界のどこで食っても、僕はこの味を間違えません」
「で、正体を隠して通ってたわけだ。律儀なこったな」
「隠したかったんです。勇者が来たら、この店の空気が変わるから」
武流は、空になった椀を見た。
「帰ってきてから、どこへ行っても『勇者』なんですよ。飯を食っても、道を歩いても。素の僕に戻れる場所が、こっちの世界にはひとつもなかった。ここのカウンターだけです。フード一枚で、ただの『よく食う兄ちゃん』にしてもらえたのは。あの婆ちゃんには、頭が上がらないんです」
「うちの流儀が、たまたま効いただけだ」
「その流儀に、僕は二ヶ月、救われてました」
武流の目が、ふと、棚の奥へ動いた。
布に包まれた、木の椀。
今夜は一瞬じゃなかった。武流は長いこと、そこを見ていた。それから、静かに言った。
「その椀。——あの日の、ですよね」
夜気が、一段冷えた気がした。
俺は答えなかった。答える代わりに、椀の包みを棚の奥へ、少しだけ押し込んだ。指先が、包みの布の上で一拍だけ止まった。それだけの動きを、武流は黙って見ていた。無理に続けなかった。続けない礼儀を、こいつはあの炊事場で覚えたんだろう。
「今日は、帰ります。ごちそうさまでした」
立ち上がって、それから振り返った。
「大将。明日も来ます。あの日の朝の話を、させてください」
一度切って、まっすぐ俺を見た。
「……ロイドの話です」
その名前を、俺は帰還してから、一度も口に出したことがなかった。夜の駅前で、竈の火だけが、小さく鳴っていた。




