第21話 陣の粥
「真田さん。十年の従軍で、あなたの陣が夜襲を受けた回数を、覚えている限り教えてください」
閉店後の屋台で、小野寺はノートを開くなり、そう切り出した。前置きなしの直球は、この人が本気の時の癖だ。
この二日、カウンターの端は聞き取りの窓口になっていた。三年前の炊き出しに並んだという客が、トメの号令で次々に証言していく。「あの豚汁の日は、女房と喧嘩しなかった」「配給のパンだけの週は、夜中に何度も目が覚めた」。数字にならない話ばかりだが、小野寺は一件も取りこぼさずノートに落としていた。そして今夜、聞き取りの矛先が、とうとう俺に回ってきたわけだ。
「数えたことはないな」
「では、思い出せる範囲で。他の陣と比べて、多かったですか、少なかったですか」
「少なかった」
即答してから、自分で少し引っかかった。考えて答えたんじゃない。身体が先に答えた。十年の間、それはあまりに当たり前のことで、考える対象ですらなかった。
「どのくらい少なかったんでしょう」
「隣の陣が月に三度襲われる時期に、うちはゼロって月がざらにあった。十年の後半は、うちの陣で夜襲の警鐘を聞いた覚えがほとんどない。兵どもは竈のご利益だと笑ってたよ。験担ぎに、出撃前は必ずうちの列に並ぶ奴もいた」
「真田さんは、どう思ってました」
「巡り合わせだと思ってた」
「今は?」
ノートの上で、ペンが止まって俺を見ていた。
今は、どうなんだろうな。三年間飢えたままの街と、上がり続ける活性値と、十三週だけ平らなグラフ。偶然と呼ぶには、線が繋がりすぎている。ただ、俺の口からそれを言うのは、何かが違う気がした。俺は理屈の人間じゃない。俺が持ってるのは、椀の数だけだ。
答えの代わりに、俺は鍋を火にかけた。こういう晩は、手を動かしながらの方が、記憶の蓋が開く。
作ったのは、陣の粥だった。
麦と米を半々、干し肉の出汁で炊いて、彷徨茸を散らす。塩は薄めだ。疲れた兵の舌は塩を欲しがるが、欲しがるままに効かせると、翌朝の水が足りなくなる。塩加減ひとつにも、陣の水瓶の残りが関わってくる。そういう椀だ。
向こうの炊事場で、十年で一番数多く作った。数えるのも馬鹿らしい数を、この手で椀に張ってきた。こっちで作るのは、賄いを除けば初めてだった。土鍋の中で麦が踊るのを見ていたら、天幕の匂いまで戻ってきそうだった。
「撤退戦の夜の話はしたな。隣の丘が潰れた晩の」
「はい。柵より先に竈を立てた話」
「あの晩、なんで竈を先にしたか、自分でも長いこと説明がつかなかった。退いてきた連中の顔色が悪かったから、としか言えなくてな。けど、思い出してみりゃ、俺はあの判断を十年で何度もやってる。陣地の設営で迷ったら、必ず竈を先にした。理屈じゃない。……飢えた顔が並んでる場所ってのは、置いておくと、まずいことになる。そういう肌感覚だ」
「まずいこと、というのは」
「喧嘩。盗み。脱走。それと——夜襲だ」
小野寺のペンが走り出した。
「老神官の話、もう一度聞かせてください。正確に」
「魔というのはな、サナダ。飢えた陣に湧くのだ。だからお前の竈は、砦の壁より固い。爺さんはそう言った。茸の毒見のついでにな。俺は坊主の験担ぎだと思って流した」
「その老神官は、他にも何か」
「飢えた陣から、順に食われる、とも言ってたな。撤退戦の翌朝だ。冷めた竈に手をかざして、独り言みたいに。それきり深い話はしなかった。あの爺さんは、説くより食う方が好きな坊主だったからな」
粥が炊けた。椀に張って、小野寺の前に置く。
「食いながらでいい。それで、もう一つの話だ。共食ってやつ」
「きょうしょく」
「兵ってのはな、一人で食わせると欠けていく。飯を天幕に持ち帰って一人で食う奴は、ひと月で目が濁る。車座で食わせると、戻ってくる。同じ飯でだ。だから俺は、配食の列の先に、必ず車座の場所を作った。焚き火一つでいい。誰かの隣で食う、それだけで兵は保つ」
「理屈は」
「知らねえよ。千人分の顔で覚えてるだけだ」
一人だけ、よく覚えている兵がいる。古参の弓兵で、女房の戦死の報せが来てから、飯を天幕で一人で食うようになった。ひと月で頬がこけて、目が濁った。俺は三日続けて、そいつの椀だけ焚き火の車座の真ん中に置いた。仕方なく車座に来て、仕方なく誰かの話を聞いて、仕方なく笑って。ふた月後、そいつの目は戻ってた。飯の中身は、ひと椀も変えちゃいない。
「それ、そのまま報告書に書きたい話です」
「名前は伏せてやってくれ。もう会えもしねえ相手だが、義理ってもんがある」
小野寺は粥を一口食って、例によって黙った。黙って完食して、椀を置いて、湯気の消えた椀の底をしばらく見ていた。千人の兵と同じ椀を、自分も今、食ったのだと確かめる目だった。それから、ノートに書いた。書きながら、口の中で整理するように呟く。
「魔素は、欠乏に引かれる。飢え、孤独、見捨てられた土地。……共食は、欠乏を埋める。三年前の炊き出しの十三週と、整合します。真田さんの陣の十年とも、整合します」
「証明は」
「できません。今の手札は、観測誤差扱いのグラフと、経験則と、異世界の坊主の格言。この三枚で機構を動かせと言われたら、私は無理だと答えます」
「なら、どうする」
「証拠を増やします。それか、証人を」
「証人ってのは、どんなのが要る」
「異世界の実例を、自分の体験として語れる人。それも、機構が無視できない立場の帰還者です。真田さんの証言は貴重ですけど、機構はあなたを『摘発しそこねた屋台の主人』としか見ませんから。悔しいですけど、発言の重みは肩書きで決まるんです、あの建物の中では」
肩書きのある帰還者。討伐の英雄サマたちが、竈の理屈を語るところは想像がつかなかった。俺がそう言うと、小野寺は「ですよね」と苦笑して、ノートを閉じた。
小野寺が顔を上げた時、屋台の外に、大きな影が立っていた。
フードの大男だった。
今夜は、丼を頼む気配がなかった。フードの奥の目が、まっすぐこっちを見ていた。いつもの軽さが、どこにもなかった。
「大将。お願いがあります」
低い、静かな声だった。小野寺が反射的に立ち上がりかけて、トメがいたら袖を引かれていただろう勢いのまま、座り直した。
「明日、閉店のあとで、時間をもらえますか」




