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第20話 湯気は数字に写らない


翌日の夕方、小野寺が台車を押してきた。

載っているのは段ボール箱が三つ。屋台の隅に積み上げて、埃を払う。箱の側面には、三年前の日付と「桜台氾濫・関係資料」の手書き文字。

蓋を開けると、古い紙の匂いに、うっすら焦げた匂いが混ざっていた。避難所の名簿、給水の記録、苦情受付の綴り、商店会の議事録。三年前が、箱の中でそのままの形で眠っていた。

「よく借り出せたな、こんなもん」

「借りてません。廃棄予定の箱です。保存期限切れで、来週、溶かされるはずでした」

「際どいことをする」

「際どくないですよ。廃棄物の再利用です。規約上は」

「場所を貸してください。機構の中では、この調査はできません」

「調査ってのは」

「三年前の再検証です。誰も、ちゃんとやってないんです。氾濫が起きて、収束して、報告書が締められて、それで終わり。なぜ起きたのかの検証は、実は一行もない」

カウンターの端が、その晩から小野寺の陣地になった。俺は商売、向こうは紙の山。湯気の届かない位置に紙を守る癖は、もう板についている。夕飯は麦飯と汁を出した。調べ物の頭には、腹八分の飯がいい。満腹は眠気の親だ。


「変なんですよ」

閉店近く、小野寺が古い折れ線グラフを突き出してきた。

「三年前の氾濫直前の活性値の伸び方と、今回の伸び方、ほとんど同じ形なんです。ここまでは分かる。でも、ダンジョン側の条件が全然違う。三年前は採取も討伐も今の三分の一で、穴はほとんど手つかずでした。今は毎日探索者が入って、資源を抜いて、魔物を間引いてる。穴への負荷が三倍違うのに、活性値の曲線だけが同じ。おかしくないですか」

「俺に訊かれてもな。穴の中のことは分からん」

「ですよね。私も分からないんです。ただ、原因が穴の中にあるなら、条件が違えば曲線も違うはずなんです。曲線が同じってことは、原因は、穴の外にある」

穴の外。つまり、この街だ。

トメが帳場から口を挟んだ。

「外って、あんた。街のもんが何をしたって言うんだい」

「何かをした、じゃないのかもしれません。何かが、足りてない」

「足りてないって、何がさ」

「分かりません。分からないから、三年前を掘ってるんです。三年前と今と、共通してる『足りないもの』が見つかれば、それが答えの候補です」

トメは鼻を鳴らして帳場に戻った。戻ってから、小さく呟いたのが聞こえた。

「足りないもんなら、この街にゃ山ほどあるよ」


その晩、新しい客が来た。

母親と、五つくらいの男の子。仮設住宅の住人だという。説明会の後、荷物をまとめかけて、まとめる手が止まって、せめて温かいものでも、と出てきたらしい。

子どもには彷徨茸のクリームシチューを出した。茸の土くささは牛乳が丸めてくれる。具は小さめ、温度はぬるめの一歩手前。子どもの椀は大人の椀の縮小じゃない。

男の子は一口食って、目を丸くして、それから匙の持ち方も忘れた勢いで黙々と食った。

「この街、夜が暗いでしょう」

母親が、ぽつりと言った。

「この子、氾濫の年に生まれたんです。だから、明るい駅前を見たことがない。商店街のアーケードに電飾がついてた頃なんて、写真でしか知らないんです。この子にとっては、暗いのが普通なんですよね。それが時々、無性に応えて」

母親は、しまった、という顔をした。

「ごめんなさい、こんな話。あの、シチュー、すごくおいしいです」

男の子が空の椀を差し出して、「おかわり」と言った。この店で今夜いちばん、まっすぐな注文だった。

二杯目を半分こしながら、母子はぽつぽつと話していった。仮設住宅は山に一番近い区画で、避難勧告が出たら真っ先に出る側だということ。行く当てはあるが、行きたい当てではないこと。

帰り際、男の子が振り返って訊いた。

「おじちゃんの店、あしたも、ある?」

「毎日やってる」

「ひなんしても?」

一瞬、言葉が詰まった。

「……ああ。あんたが戻ってくる日には、必ずやってる」

男の子は頷いて、母親の手を握り直した。子どもってのは、大人が誤魔化した半歩を、ちゃんと見抜いた顔をする。


閉店後、小野寺が資料の山から一枚の紙を抜き出した。

「真田さん、これ」

三年前の冬の記録だった。氾濫の三ヶ月後、商店街が「復興炊き出し」というのを、ひと冬だけやっている。毎週日曜、駅前広場で豚汁を配った記録。主催の欄に、井口トメの名前があった。

「婆さん、あんた」

「ああ、やったよ。店を畳む前の、最後の意地でね。商店会の生き残りで金を出し合って、毎週日曜、豚汁を二百食。並んだ客の顔が、あの冬だけは生きてたよ。三ヶ月で金が尽きて終わったけど」

「終わった後、どうなりました」

「どうもこうも。春までに七軒畳んだ。うちを入れて八軒だ」

トメは湯呑みに目を落とした。それ以上は誰も訊かなかった。

小野寺は、その紙の横に、活性値の記録を並べた。

「炊き出しをやっていた十三週の間だけ——活性値の上昇が、止まってるんです。前後はきれいな右肩上がりなのに、この期間だけ、平ら。当時の観測記録には『観測誤差』って注記されてます」

「誤差、ですかね」

「誤差かもしれません。十三週きっかり続いて、炊き出しが終わった週に終わる誤差って、私は聞いたことがありませんけど」

小野寺は、グラフの平らな区間を、指でなぞった。

「数字は嘘をつきません。でも、測ってない数字は、最初から存在しないことになるんです。——湯気は、数字に写らない。写らないだけで、ずっとそこにあったんだとしたら」

グラフの平らな十三週と、赤鉛筆の丸。廃棄されるはずだった箱の底から出てきた紙が、カウンターの上で、静かに何かを言っている。

「明日から、聞き取りをやります。三年前の炊き出しに並んだ人を探して、当時の話を集める。数字の裏を、人の記憶で取ります」

「なら、聞き取りはこの席でやりな」

トメが帳場から言った。

「並んだ連中の半分は、今もこの列に並んでるよ。豚汁を配った側の生き残りも、ここに二人いる」

帳場の婆さんと、鍋の前の俺。配った側は、いつの時代も頭数が足りない。

夜の駅前で、うちの寸胴だけが、まだ湯気を立てていた。湯気の立つところに人が集まって、人が集まるところで数字が止まる。まだ誰も、それを証明できない。できないだけだ。

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