第19話 十五日後
朝、三年ぶりに防災無線が鳴った。
スピーカーの割れた声が、駅前に響く。桜台ダンジョンの活性化に関する緊急住民説明会、本日十三時、公民館。それだけ言って、無線は切れた。
仕込みの手を止めて、通りを見た。シャッターの前で、雑貨屋の親父が立ち尽くしている。パン屋の自転車が、来た道を引き返していく。電柱に貼り出されていく白い紙。
三年前と同じ音だ、とトメが言った。湯呑みを持つ手が、指の節まで白くなっていた。俺は黙って、その湯呑みに熱いのを注ぎ足した。
十三時前の公民館への道は、三年ぶりに人で埋まった。皮肉なもんで、駅前にこれだけの人間が歩いてるのを、俺は初めて見た。トメと並んで歩きながら、誰も口を利かなかった。
公民館は、立ち見が出た。
壇上に立ったのは、うちの常連の観測班だった。フードもマスクもなしの、正式の制服姿で、若いのがマイクを握っている。
「桜台ダンジョンの魔素活性値は、本日未明、警戒水準を超えました。過去の観測例に照らすと、氾濫の発生が予測されます。予測時期は、十五日後。前後二日の幅があります」
会場が、一拍遅れて揺れた。
「規模は」と誰かが叫んだ。
「三年前と同等か、それ以上です」
若いのは、逃げずに言い切った。数字を守ってきた人間の言い方だった。会場の後ろの方で、赤ん坊が泣き出した。三年前を知らない子だ。この街には、三年前を知らない子が、もうあれだけいる。
質問は続いた。避難はいつから始めるのか。避難先は三年前と同じ体育館か。小学校は休みになるのか。仮設住宅は、あそこは山に一番近いのに、どうなるのか。
壇上の市の防災担当が、決まっていることと決まっていないことを、正直に仕分けして答えていった。決まっていないことの方が多かった。
「機構の増援は」
最後に、誰かがそれを訊いた。観測班は答えられなかった。マイクを握ったまま、一度だけ、悔しそうに口を結んだ。その沈黙が、答えだった。
◇
同じ日の午後、機構県支部の会議室。
防衛計画会議は、最初から数字の話だった。
「本部の回答を読み上げます。『防衛戦は討伐実績に計上されないため、増援の優先度は低位。県支部の現有戦力で対応されたい』」
現有戦力、と誰かが乾いた声で繰り返した。第一討伐部隊は大遠征の失敗で再編中、稼働は半分。第二部隊は他県の応援に出ている。
「そもそも」と柴田が書類を繰った。「私は以前から、観測班の報告には注意を払うべきと申し上げていました。ええ、記録にも残っているはずです」
会議室の末席で、観測班の班長が顔を上げた。毎週、判断材料不足の付箋で突き返されてきた男の顔を、柴田は見なかった。
鏑木は、会議の間、一度も発言しなかった。
大遠征の失敗以来、査問を控えた部隊長に、防衛計画への発言権はない。議題が「第一部隊の残存戦力の配置」に及んだ時だけ、地図の一点を短く指した。ダンジョンの正面。氾濫が起きれば、最初に押される場所だった。誰も反対しなかった。反対する理由も、代わりに立つ者もいなかったからだ。
「防衛線の想定を縮小しましょう。駅前地区は三年前も持ち堪えた実績がありますし」
「持ち堪えていません」
声を上げたのは小野寺だった。
「三年前、駅前は物理的には守られました。でもあの氾濫で、商店街は三十一店舗が廃業しています。人的被害ゼロ、建物被害軽微、地域は死にかけた。それが『持ち堪えた』ですか」
「渉外課の所管は」
「守れないなら、何のための機構ですか」
言葉が、会議室の真ん中に落ちた。誰も拾わなかった。議事録係のペンだけが、少し迷ってから、動いた。
◇
夜の屋台は、静かだった。
説明会帰りの住民で席は埋まっているのに、声が少ない。こういう夜は、品書きを絞る。角猪汁と、握り飯。二品だけだ。選ぶ気力のない人間に、選択肢は毒だ。黙って椀を出す。
向こうでも、悪い報せの晩は同じことをした。品書きなんぞ元からない炊事場だが、そういう晩は品数を減らして、椀を出す速さだけを上げた。悪い報せと空きっ腹を、同じ腹に長居させないためだ。
温かい椀を両手で持つと、人の肩ってのは、少しだけ下がる。三年前の避難所で小野寺が数えた「苦情の消えた日」の正体は、たぶんこの肩の高さだ。
トメは今夜、帳場に座ったまま、あまり喋らなかった。
「あの時とおんなじ顔をしてるよ、みんな」
茶を注ぎながら、一度だけそう言った。
「顔ってのは覚えてるもんだね。ああいう晩の顔を、あたしは五十年ぶんの客の顔の中から、すぐに引っ張り出せちまう」
閉店間際、観測班の若いのが一人で来た。制服のまま、列の最後尾に立って、順番が来ても、しばらく注文が出てこなかった。
「すみません。俺が、あんな発表したせいで、街が」
「数字を出した奴のせいで雨が降るなら、天気予報は今頃全員縛り首だ」
椀を押し付けると、若いのは黙って受け取った。
「あんたの仕事は正しい。十五日前に分かるのと、当日に分かるのじゃ、打てる手の数が違う。……で、何か打てる手はあるのか、って顔だな。俺もだ」
「なあ、大将。俺ら、また駄目なのかな」
久保田がぽつりと言った。番頭の帳面が、今夜は開かれていない。
「三年前さ、俺、中三で。親父の店の手伝いも、なんもできなくて。今度は稼げるようになったのに、また、あれが来るんすね」
答える代わりに、椀に芋を足してやった。
励ましの言葉ってのは、俺の商売道具じゃない。俺の道具は椀だ。
久保田は芋を睨んで、それから黙って食った。食い終わる頃には、番頭の顔が半分戻っていた。飯の効き目なんて、その半分で十分だ。残りの半分は、明日の仕事が戻してくれる。
客が引けた後、火を落としながら、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「久保田。この街、三年前から客足が絶えてるって言ったな」
「え? ……言いましたけど」
「三年間、ずっとか。一度も戻らずにか」
「戻らないっすよ。ずっと暗いまんまっす。それが、何か」
夜の駅前を見た。灯りの増えかけた通りと、その向こうの暗い山の稜線を。灯りと闇の境目が、今夜はいやに、はっきり見えた。
飢えた陣、という言葉が、頭の奥で竈の火みたいにちらついていた。
まさかな、と思う。思うのに、鍋を磨く手が、なぜか止まらなかった。




