第17話 空の箱
撤退命令は、遠征七日目の夜に出た。
最深部を目前にして部隊を折ったのは、魔物ではなかった。
その日の夕方、雨の残る第三夜営地の配給で、乾燥食が尽きた。正確には、尽きたのは「まともな」乾燥食で、残っていたのは期限切れの箱だけだった。糧食係が配分を絞ると宣言した瞬間、列が崩れた。
掴み合いは二箇所で同時に起きた。古参が新入りの箱を取り上げ、取り返そうとした新入りが突き飛ばされ、倒れた拍子に箱が破れて、中身が泥の上に散らばった。それを、周りの兵が拾った。拾って、自分の懐に入れた。
「やめろ」
仲裁に入った鏑木の声で、全員が凍りついた。
隊長は、散らばった携行食と、破れた空き箱を見下ろしていた。
長い沈黙だった。部下たちは処分の言い渡しを待った。だが、聞こえてきたのは別の言葉だった。
「箱を、拾え」
「は?」
「箱を捨てるな。食い物の箱を、泥の上に、放っておくな」
声が、震えていた。
部下たちは顔を見合わせた。規律の話でも、処分の話でもない。隊長は空き箱を自分の手で拾い上げて、泥を払って、それから急に我に返ったように部下たちを見た。
「——撤退する。全隊、装備をまとめろ」
最深部到達まで、地図の上ではあと半日だった。討伐目標の達成率は六割で止まった。過去最大の戦力と、過去最高の装備で、第一討伐部隊は飯に負けて山を降りた。
帰路の車列は、行きより静かだった。行きの車内には、少なくとも包装フィルムを開ける音があった。帰りは、それすらなかった。討伐記録の用紙だけが、律儀に六割の戦果を並べている。誰かがぽつりと「六割って、処分出るのかな」と呟いて、誰も答えなかった。
帰路の車内で、鏑木の右手は、ずっと固く握られたままだったという。誰も、その理由を訊けなかった。訊いたところで、たぶん本人にも答えられなかった。
◇
翌日の深夜、屋台に討伐部隊の若いのが二人、流れ着いた。
制服のまま、装備だけ返納してきたらしい。二人とも頬がこけて、目の下に隈が濃い。列の最後尾で所在なげにしていたのを、先に気づいたのは久保田だった。
「大将、あれ、遠征帰りの人らっすよ」
機構の制服は、この駅前じゃ目を引く。なにせ、三週間前にこの屋台へ摘発予告を持ってきた組織の制服だ。列の空気が少し硬くなったのを、トメが茶を配って回ってほぐした。
順番が来て、二人はカウンターの前で立ち尽くした。
「あの、自分ら、機構の」
「見りゃ分かる。雑炊でいいか。今のあんたらの腹に、丼は重い」
二人は椅子に崩れ落ちた。
雑炊は土鍋ごと出した。取り分ける手間の分、湯気に当たる時間が長くなる。冷えて強張った顔ってのは、湯気で先にほぐしてやるに限る。
半分ほど食ったところで、若い方の箸が止まって、洟をすする音がした。
「……自分ら、何しに山へ行ったんすかね」
「食え。話はそれからでいい」
「装備は最強なんすよ。刃こぼれ一つしなかった。なのに、なんで」
「食え」
年上の方が、雑炊を見つめたまま、低い声で言った。
「この店、隊で噂になってました。うちの隊長が摘発をかけた屋台が、機構の職員にまで飯を食わせてるって。笑い話みたいっすよね。摘発する側が、こうやって世話になってる」
「笑い話でいいさ。飯場の話は、笑い話が一番うまい」
茶を足してやると、若い方がまた洟をすすった。泣くには疲れすぎている泣き方だった。
結局、最後まで話は聞かなかった。聞いても、こいつらが背負う話じゃない。積み込みの計算を間違えたのも、警告の紙を握り潰したのも、兵站の欄を一行で済ませたのも、こいつらじゃない。
二人は土鍋を空にして、白飯を一杯ずつ追加して、勘定の倍の金を置こうとして、トメに正確な釣りを持たされて帰った。去り際、年上の方が振り返って、深く頭を下げた。
「ごちそうさまでした。……あの、うちの隊長が、その」
言いかけて、やめて、もう一度頭を下げて、二人は夜の中へ消えた。
◇
「さて、兄さん。景気のいい顔してるとこ悪いんだけどね」
閉店後、トメが帳場の紙をカウンターに広げた。数字の列の一番下が、赤鉛筆で囲ってある。
「今月、このままだと鍋が空になるよ」
「売れてるはずだがな」
「売れてるさ。売れてる分より、タダで出してる分が伸びてるんだよ」
トメの指が、紙の上を叩いていく。撤退兵の雑炊。観測班の夜食のむすび。金のない探索者のツケ。仮設住宅の婆さん連中に持たせた煮物。一つ一つは小銭だ。束になると、仕入れ一週間分になっていた。
おまけに、と指がもう一列を叩く。米の値も味噌の値も、秋に入って上がっている。素材の買い取りは現金払いだから、手元の金は日々薄くなる。売上は伸びてるのに、金庫の底が近い。商売なんてのは、伸びてる時ほど金が要るらしい。理屈は分かる。分かるが、身体が覚えてこない。
「腹が減ってる奴から金は取れねえ」
「知ってるよ。あんたはそういう男だ。だからあたしは帳場にいるんだ」
トメは赤鉛筆を置いて、湯呑みの茶を飲み干した。
「その心意気で店を潰した奴を、あたしは五十年で三人見た。三人とも、いい男だったよ。いい男の店から順に潰れるんだ、こういう街じゃね」
返す言葉がなかった。金の話になると、俺の算盤は途端に鈍る。千人分の米の量は暗算できるのに、目の前の帳簿の赤が読めない。軍じゃ金は主計の仕事で、俺は量と段取りだけ見てりゃよかった。こっちじゃ、両方が同じ鍋に入ってる。
「ツケなら、俺が回収してきましょうか」
片付けを手伝っていた久保田が、番頭の顔で言った。トメは首を横に振った。
「取り立てたら常連が減るだけだよ。ツケってのはね、取り立てるもんじゃない。仕組みで解くもんだ」
「仕組み?」
「それを今から考えるんだよ」
「で、だ」
トメが、ふっと目を細めた。悪だくみをする時の、板場の婆の顔だった。
「ちょいと、考えがあるんだけどね。あんたの目利きと、あたしの帳場でさ」
「聞こうか」
「今夜は駄目だよ。眠い年寄りの思いつきは、朝の頭で検算してからじゃないと売り物にならないんだ。明日、番頭も呼んどきな。あの子の帳面が要る」
トメは湯呑みを伏せて、よっこらしょと立ち上がった。帰り際の背中が、機嫌よく揺れていた。五十年もんの悪だくみってのは、後ろ姿からして値が張りそうだった。




