第16話 山の上の算数
崩壊は、爆発や咆哮からは始まらなかった。
表計算のセル一つから始まった。
遠征三日目の朝、第一補給地点。先発隊が受け取るはずだった食糧は、計画値の半分しか届いていなかった。
輸送班が持参した積載計画表と、出発時の実積載を突き合わせて、担当者の顔から血の気が引いた。乾燥食のコンテナが、同じ番号で二度計上されている。紙の上では二つ、実物は一つ。出発前の点検で誰かが気づくはずの誤りだった。気づくはずの人間が申請した再計算は、支部の決裁箱の底で眠っている。
「予備の携行食があるだろう。回せ」
無線の指示で倉庫から掻き集められた箱は、先月、部隊が食い残して返品した山だった。箱の三分の一は、この遠征の間に賞味期限が切れる。
水も狂った。中継地の湧水が涸れていて、現地調達を当てにした分が丸ごと消えた。飲用を優先して、調理用と洗浄用が削られる。洗えない食器、沸かせない湯。冷たい飯と、ぬるい水。
それでも隊は前進した。
「補給の遅延は想定内だ。行程は変えない」
鏑木の判断は、数字の上では正しかった。討伐目標の達成率は初日から予定を上回っている。装備は完璧に機能し、隊員の技量は水準以上。戦闘での負傷者はゼロ。
夜営地の配給の列だけが、日ごとに歪んでいった。
三日目、列は二本に割れた。古参と新入りだ。四日目、割れた列の間で、パンの配分をめぐって声が上がった。五日目の朝、糧食係の天幕から乾燥食が四食ぶん消えて、誰も名乗り出なかった。
五日目の夜、鏑木は夜営地を一人で巡回した。
討伐数、予定比百十二パーセント。負傷者ゼロ。装備の稼働率、百パーセント。巡回しながら、頭の中で今日の数字を繰り返す。完璧な数字だった。なのに、すれ違う部下が目を合わせない。焚き火を囲む輪がいつもより小さく、笑い声がない。冷えた携行食の包装を、みんな黙々と噛んでいる。
何かが削れている。それは分かった。ただ、その何かは、鏑木の知っているどの報告書の、どの欄にも載っていなかった。
戦闘記録には、何も書くことがない。順調だった。数字の上では、何もかも。
◇
「大将、遠征って、飯だけでそんなに変わるもんすか」
屋台では、芋煮の大鍋が湯気を上げていた。
十月に入って、夜の冷えが本物になってきた。里芋と角猪と葱と茸を、醤油の汁でくつくつ煮る。椀によそうと、芋の角がとろけて汁が濁る。この濁りが冷えた身体に効く。
芋煮は朝から仕込んであった。里芋は下茹でしてぬめりを取り、こんにゃくは包丁を使わず手でちぎる。ちぎった断面に味が染みる。角猪は薄切りを最後に泳がせて、葱は青いところまで使い切る。醤油は二度に分けて、一度目は染みさせるため、二度目は香りのためだ。
「山形の芋煮とも違うし、うちの田舎のとも違うねえ」と背広の一人が首を捻り、「陣中の芋煮だからな」と答えると、妙に納得していた。
久保田の質問に、俺は手を動かしながら答えた。
「二百人が十四日、山で食う量を考えてみろ。米だけで一トンって話はしたな」
「しました。ぴんと来ないっすけど」
「うちの寸胴で四百杯ぶんの汁を、毎日二十回炊く量だ」
「……無理じゃないすか、それ」
「無理だから、兵站って仕事がある。飯を作る前に、まず道を作るんだ。どこで水が取れて、どこまで車が入って、どこから人が担ぐか。何日目にどの中継点へ何箱着くか。全部決めてから、最初の一箱を積む。逆はない」
「おかわり、いいかい」
話の途中で、主婦客が椀を差し出した。今夜は娘を連れている。娘の椀には芋を多めに、葱は細かく刻み直してよそった。子どもの椀ってのは、大人の椀の縮小じゃない。別の料理だ。
カウンターの客が、いつの間にか聞き入っていた。B級の兄さんが箸を止めて言う。
「今度の遠征、その計算をした奴がいなかったって話か」
「計算はしたんだろう。紙の上ではな」
芋煮の椀を、列の順に出していく。
「ただ、紙と山は別物だ。紙の計算は、セル一つ間違っても誰も腹を下さない。山じゃ、その一つで二百人が飢える」
「大将、なんか実感こもってるっすね」
「こもるさ。俺の商売は、間違えたら人が食えない側の商売だった」
「あのう、大将」
久保田が、椀を持ったまま遠慮がちに手を挙げた。
「山の連中に、差し入れとかって、できないもんなんすか。大将の飯なら、あいつらも」
「できねえよ」
即答になった。できるなら、向こうの十年でとっくにやってる。
「戦場の飯ってのは、外から届かない。届く頃には冷めて、腐って、奪われる。中で炊くしかないんだ。中で炊く人間を、あの部隊は最初から積んでいかなかった。そういう話だ」
久保田は椀の中の芋を見て、それ以上訊かなかった。
◇
閉店後、火を落とした竈の前で、古い夜のことを思い出していた。
向こうの十年で、俺の陣は夜襲が少なかった。兵たちは「サナダの竈のご利益だ」と笑い話にして、湯気の立つ椀で験を担いだ。俺も笑って流していた。偶然だと。ただの巡り合わせだと。
一度だけ、笑わなかった男がいる。あの茸の目利きの老神官だ。
撤退戦の夜だった。総崩れの退き際で、俺は陣地の柵より先に竈を立てて、将校に「順番が逆だろう」と怒鳴られた。それでも先に湯を沸かした。退いてきた兵の顔が、揃って土気色だったからだ。ああいう顔の兵隊は、柵があっても中から崩れる。
その晩、隣の丘の陣は夜襲で潰れた。距離にして半里も離れていない。悲鳴と火の手は、こっちの陣からもよく見えた。竈の湯気が立っていたうちの陣には、魔物が一匹も寄らなかった。兵たちは椀を持ったまま、隣の丘の火を黙って見ていた。
翌朝、老神官は冷めた竈に手をかざして、独り言のように言った。
「飢えた陣から、順に食われる。……サナダ、お前は良い仕事をしている。お前が思っているより、ずっと深いところでな」
深いところの話は、坊主の領分だ。俺は椀を数える方で忙しかった。爺さんは葬式の経より飯の礼の方が長い妙な坊主で、あの朝も結局、粥を二杯食っていった。
今になって、あの言葉を思い出すのは——山の上に、飢えた陣が一つ、できあがりつつあるからだろう。
腹が減ってると、人間ろくなことを考えねえ。
山の上の連中は今頃、ろくでもないことを考え始めている頃だ。




