第十三話:氷晶の楔、薄氷の均衡
第十三話:氷晶の楔、薄氷の均衡
北アルプスの深奥、黒田の地は、もはや建設現場というよりは、巨大な鉄の肉を削り合う解体場の様相を呈していた。
「……計算が合わねぇ。進、この岩盤、生きてやがる」
辰造が、モニター越しに泥だらけの顔を歪めた。
明智建設が直面した最大の壁。それは、黒田の山が持つ「異常な地殻応力」だった。ここの花崗岩は、数千万年の歪みを蓄積しており、少しでも削りすぎれば、岩盤全体が爆圧を伴って弾け飛ぶ「山跳ね」を引き起こす。かといって、削る速度を落とせば、冬の訪れと共に地盤が凍結・膨張し、堤体は完成前に粉砕される。
「削れば崩れる。削らねば凍る。……詰みかよ、これは」
健太がキーボードを叩きながら呟く。モニターには、赤く染まった危険領域が刻一刻と広がっていた。
島田の「解」
進は『桔梗』の操縦席で、神経接続の熱にうなされていた。脳裏に直接、岩盤の「悲鳴」が伝わってくる。
『進……聞こえるか……。この山は、一つの大きな、生命体だ……』
『桔梗』のOSに同調した島田の意識が、ノイズ混じりに語りかける。
『力で……ねじ伏せてはいけない……。岩の隙間に流れる……水の鼓動を、感じろ……。建築とは……大地との、対話なのだから……』
島田が示した解決策は、狂気とも言える「針の穴を通す工法」だった。
大規模な爆破や削岩を一切禁止し、岩盤のストレスポイントにのみ、『桔梗』の超高周波振動ドリルで「微細な穴」を無数に穿つ。そこから特殊な冷却材を注入し、岩盤内部を「凍結」させて安定化させつつ、表面だけを薄皮を剥ぐように削り取る――。
「一ミリでも深く削れば、ダム全体が崩落する……。一ミリでも浅ければ、コンクリートが乗らない。正一さん、いけるか?」
「……やるしかねえだろ。俺のハンドルは、ミリ単位の誤差も許さねえ」
正一は改造ダンプのブレーキを軋ませ、断崖絶壁の縁で静止した。
極限の精密解体
作業が始まった。
進は『桔梗』を、岩盤に吸い付くように配置した。センサー感度を最大に引き上げ、岩の「分子の隙間」を見極める。
「……ここだ」
『桔梗』のドリルが、目にも止まらぬ速さで岩肌を突く。
一箇所。二箇所。十、百、千――。
進の意識は、もはや自分の体と、北アルプスの山肌の区別がつかなくなっていた。ドリルが岩を打つたびに、進の全身に衝撃が走り、神経が焼け付く。
「進! 限界だ! 心拍数が上がりすぎてる、接続を切れ!」
健太の警告。だが、進は止めなかった。
今、この手を止めれば、地底に閉じ込められた巨大な圧力が噴出し、現場にいる辰造たちも、麓の村も、すべてが押し流される。
「壊すんじゃない……導くんだ。力の流れを……変えてやる!」
進の叫びに呼応するように、『桔梗』が眩い青光を放った。島田の計算と、進の現場感覚が完全に融合した瞬間だった。
決壊の瀬戸際
その時、山の頂から不気味な轟音が響いた。
織田重工の妨害工作――山頂付近での意図的な爆破により、大規模な土石流が発生したのだ。
「進! 上から土砂が来るぞ! 今動いたら、岩盤のバランスが!」
辰造が叫ぶ。
進は歯を食いしばった。削りすぎれば決壊する。動けば押し潰される。
進は決断した。
「辰さん、正一さん! 堤体の裏側の『バイパス路』を全開にしろ! 水圧をあえて逃がす!」
「正気か!? まだコンクリートが固まってねえ! ビル一本分の水が流れ込んだら、ダムが……!」
「信じてくれ! 俺が……俺たちが建てた基礎は、これしきの水じゃあ、びくともしない!」
進は『桔梗』を盾にし、迫りくる土砂をその背中で受け止めた。同時に、自らが穿った穴から、高圧の液体を逆噴射させる。
岩盤のストレスが、水の流れと共に一気に開放された。
ゴォォォォォォォォン!!
ダムの放水口から、泥混じりの黒い水が龍のように吹き出した。
凄まじい振動。堤体が激しく震え、周囲の岩壁が崩れ落ちる。
暁の静寂
数分後。
土煙が晴れたあとに残っていたのは、ボロボロになりながらも、一歩も引かずに岩盤を支え続ける『桔梗』と、奇跡的に無傷のまま、黄金色の朝日に照らされた「黒田ダム」の雄姿だった。
「……生き、てるか……みんな」
進の声は掠れていたが、確かな力強さがあった。
「ああ。生きてるぜ。お前の言う通りだ、このダムは……ビクともしてねえ」
辰造が、涙を泥で拭いながら笑った。
織田重工の最新兵器でも、大自然の猛威でもない。
「削りすぎず、壊しすぎず、理に適った形を導く」という、解体と建設を知る者たちだけが辿り着いた、真理の勝利だった。
昭和四十五年、晩秋。
黒田ダムは、その心臓部に莫大なエネルギーを蓄え、完成の時を迎えようとしていた。
そしてそれは、地上の王者・織田信長に対し、明智建設が突きつける「最終通告」へのエネルギーでもあった。




