第5話 右のイヤホンを差し出された朝の話
文化祭が終わって、4日が経った。
(なぜか、電車でキョンと乗り合わせていない。)
朝の出発時間が少しずれたのか。
キョンの登校ルートが変わったのか。
理由はわからない。
(たかだか4日のことだ。)
(でも、気になっている。)
(38歳がそんなことで気になっている。)
(落ち着けアラフォー。)
その翌朝。
小手川駅のホームで電車を待った。
7時14分発、各駅停車。
(今日こそ、ここで待てばいい。)
(清峰でキョンが乗ってくるはずだ。)
2005年9月。
MDウォークマンの時代だ。
スマホもサブスクも存在しない。
音楽は媒体を持ち歩いて、イヤホンで聴くものだった。
(38年後には全部スマホ一台に入る。)
(今はまだ、MDを持ち歩く時代だ。)
電車が来た。
黄色い車体の西都線。
乗り込んだ。混んでいる。
つり革を掴んで、窓の外を見た。
朝の住宅街が流れていく。
(やり直しが始まって9日が経つ。)
(今のところ、大きなミスはない。)
(でも油断するな。)
清峰駅に着いた。
ドアが開いた。
乗客が乗り込んでくる。
キョンがいた。
いつも通り、同じドア付近に立った。
鞄を持って、MDウォークマンのイヤホンを片耳に差している。
(来た。)
(落ち着けアラフォー。)
キョンが俺に気づいた。
目が合った。
どちらも何も言わなかった。
電車が動き始めた。
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しばらくそのままだった。
外の景色が流れる。
車内の話し声。
電車の揺れ。
そして。
キョンが、右のイヤホンを外した。
無言で、俺の方に差し出した。
(来た。)
(これだ。)
(この瞬間だ。)
受け取った。
耳に差した。
何も言わなかった。
キョンも何も言わなかった。
音楽が流れ始めた。
(……。)
ギター。
歪んだ音。
低い男の声。
(ビジュアル系、か。)
(38歳でもこのジャンルはあまり聴いたことがない。)
(なんというか、俺は20代の頃も30代になっても、こういう音楽の聴き方をしてこなかった。)
(落ち着けアラフォー。感想を顔に出すな。)
歌詞が聞こえてきた。
「どこにも属せない」「名前のない場所にいる」
そういうテーマだった。
(……。)
(「どこにも属せない」。)
(お前が好きなのは、そういう音楽か。)
(この時代のキョンは、自分が感じていることをまだ言語化できていない。)
(「なんか変なんだよね、私」という言葉しか持っていない。)
(でもこの音楽の中に、居場所を見つけていた。)
(「名前のない感情」を歌う曲が、お前の居場所だったんだな。)
(そういうことか。)
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3分くらいで1曲が終わった。
次の曲が始まった。
今度はもう少し速い曲だった。
でも根にあるテーマは同じだった。
「ここではないどこか」を探している曲。
(嘘ついた。)
(いい曲じゃない、とは言えない。)
(キョンが聴いてる曲だから聴いていたい、というのもある。)
(でもそれだけじゃなくて。)
(この歌詞、38歳の俺にも刺さる。)
(「どこにも属せない」——俺も、ずっとそう思っていた。)
(仕事でも家でも、ここが俺の場所だと思えたことがなかった。)
(落ち着けアラフォー。バンドに感情移入するな。)
(でも——少し、わかる気がした。)
最寄り駅が近づいてきた。
キョンが右のイヤホンを受け取った。
無言で、当然のように。
俺も無言で渡した。
電車が止まった。
ドアが開いた。
2人で降りた。
改札を抜けた。
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学校へ向かう道が分かれる前、キョンが言った。
「どうだった。」
「……。」
「正直に言っていい。」
(正直に言うのか。)
「……独特だな。」
「そう。」
「でも、嫌いじゃない。」
キョンが少し間を置いた。
「そっか。」
それだけ言って、歩き始めた。
(嫌いじゃない、は正直だ。)
(いい曲だ、とは言わなかった。)
(でも聴いていたいと思ったのも本当だ。)
(次、また聴かせてもらえるか。)
(聴けるだろう。明日も、明後日も。)
(落ち着けアラフォー。)
(でも——あのバンドの名前を、まだ聞いていない。)
(教えてくれる日が来るといいな。)
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授業中、ぼんやりと考えた。
あの曲のテーマのことを。
「名前のない感情」。
「どこにも属せない」。
(キョンがこの音楽を選んだのは、偶然じゃない。)
(自分の中の「なんか変なんだよね」という感覚に、この音楽が応えてくれていた。)
(お前が感じている「わからない」には、ちゃんと名前がある。)
(ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。)
(20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。)
(今は待つだけだ。)
窓の外を見た。
10月に近い空。
(俺はまだ言ってない。)
(でも、毎朝あの40分がある。)
(それでいい。今は。)
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放課後。
廊下でフミに会った。
「今日の電車、一緒だったか。」
(目撃されていた。)
「……まあ。」
「キョンと。」
「偶然。」
フミは何も言わなかった。
ただ「そうか」と言った。
また信じていない「そうか」だった。
(フミ。)
(お前の「そうか」は毎回うるさい。)
「偶然、同じ電車に乗ってた。それだけだ。」
「そうか。」
(三回目の「そうか」だ。)
(信じていない密度が上がっている。)
フミは弁当箱を持って教室に戻っていった。
(全部見てる。)
(何も言わないのに、全部見てる。)
(フミ。お前と俺は、たぶんずっとそういう関係なんだろうな。)
イヤホン1個分の重さなのに、手の中が重かった。バンド名はまだ訳のまま。でも毎朝聴かせてもらっている。
次回——ミナミが「好きなの?」と聞きに来る。将来の弱点が暗示されます。




