第48話 関東を離れなかった理由
10年が経った。
南浜大を出て、商社に3年勤めて、辞めた。
辞めた理由は色々あるが、一番正直な理由は「38歳の自分がやっていた仕事と、全然違う」だった。前の人生で積み上げたものが、このルートでは使えない。それに気づくのに3年かかった。
辞めてから、カフェを開いた。
清峰から2駅、小さな商店街の端。10席しかない店。名前は「ストック」。理由は特にない。響きが好きだった。
豆はブラジルとエチオピアのブレンドを使っている。フィルターで落とす。時間をかける。前の人生で身についた飲み方の感覚が、今の手に残っていた。それだけで商売になるとは思っていなかったが、3年目から常連が定着した。
投資は大学時代から細々とやっていた。リーマンショックの底値で仕込んで、EU離脱の前に動いて、大統領選の結果を読んで動いた。前の人生で「そうなった」と知っていることを、ただ粛々と実行した。
チートと言えばチートだ。
ただ、38歳の自分が戻ってきた意味がそれだけだとも思っていない。
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キョンとは、ずっと連絡が続いていた。
メールがLINEになって、たまに会う頻度は年に3〜4回。キョンは服飾の道に進んで、今はフリーのデザイナーをやっている。小さなブランドの立ち上げを手伝ったり、展示会に出したり。
名前のない関係のまま、10年が経った。
それを「止まっている」とは思っていない。ただ、形がない。
(形がないまま、10年だ。)
(俺はそれでよかった。お前のペースを待っていた。)
(ただ——こんなに長くなるとは、最初は思っていなかった。)
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11月の平日、キョンが店に来た。
予告なしだった。
ドアが開いて、見慣れた顔が入ってきた。髪が肩まで伸びていた。黒いコートで、手にトートバッグ。バッグの形が少し特殊だった。自分で縫ったやつだと思った。
「……開いてた?」
「開いてる」
「予約いる?」
「いらない、どうぞ」
カウンターの端に座った。
平日の昼過ぎ、他に客は1人だけだった。常連の老人で、いつも文庫本を読んでいく。こちらに気づかなかった。
コーヒーを出した。キョンはブラックで飲む。これは10年前から変わっていない。
「いい店」
「ありがとう」
「リュウっぽくない」
「どのへんが?」
「落ち着きすぎてる」
(お前に言われたくない。)
キョンはカップを手に取って、店の中をゆっくり見た。棚の豆の瓶。壁の手書きメニュー。窓の外の商店街。
「来ようと思ってた。ずっと」
「それで?」
「来なかった」
「なんで」
キョンが少し間を置いた。
「……来たら、何か言いそうで」
(落ち着けアラフォー。)
(10年かけてやっとそれを言った。)
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コーヒーを飲みながら、キョンはしばらく店を見ていた。
「なんでここにしたの?」
唐突だった。
「え?」
「清峰のそば。大学出て、商社入って、辞めて。カフェ開く場所、他にもあったでしょ。なんでわざわざここなの、って、ずっと思ってた。」
俺はカウンターを拭く手を止めた。
(来た。)
(10年かけて、やっと聞いてきた。)
(落ち着けアラフォー。)
「いい物件だった」
「それだけ?」
「他にも理由があった」
キョンが俺を見た。
「なに?」
「南浜大が近かった」
「大学、もう出てるじゃん」
「そうだな」
「……」
「商社も近かった」
「辞めてるじゃん」
「そうだな」
キョンが少し黙った。
「カフェ、別の場所でもよかったんじゃないの?」
「清峰の物件の方が良かった」
「嘘だ」
(バレてる。)
(10年経っても、お前は同じ顔でそれを言う。)
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俺はコーヒーをもう一杯淹れた。
自分の分。カウンターの内側で、キョンの向かいに立った。
(どこかで言わないといけない。)
(名前のない関係のまま10年が経った。)
(このまま10年が続くかもしれない。)
(それでも俺はここにいる。なぜここにいるか、聞かれた。答える。)
「正直に言うと」
「うん」
「お前がいるから」
キョンが動かなかった。
「……10年、それだけでここにいたの?」
「それだけじゃない。ただ、一番でかい理由ではある」
しばらく沈黙があった。
窓の外で、商店街の人が自転車で通り過ぎた。
「なんか」とキョンが言った。「ずるい」
「何が?」
「そういうこと、さらっと言うの」
「聞いたのはお前だ」
「……そうだけど」
キョンがコーヒーカップを両手で持った。
「私も」
小さかった。
「大学、どこにするか迷ってたとき。この辺にしたのは、リュウがいたから、っていうのが、あった。」
(……。)
(知らなかった。)
(38年分の記憶にも、それはない。)
(前の人生では、こういう話をしなかった。)
(お前が大学をどこにしたか、俺は知らなかった。知ろうとしていなかった。)
(今回は、知った。)
「そうか」
「うん」
またしばらく黙った。
悪くない沈黙だった。
(落ち着けアラフォー。)
(今のお前に「だから名前をつけよう」と言うのは、まだ違う。)
(ただ、聞けた。聞いてもらえた。)
(それで今は、十分だ。)
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キョンは1時間ほどいて、帰った。
「また来る」と言った。
俺は「また来てくれ」と言った。
ドアが閉まった。
商店街に、コートの後ろ姿が消えた。
常連の老人が本を閉じた。「いい店だな」と言った。「ありがとうございます」と俺は言った。老人が帰った。
店に一人になった。
俺はカウンターを拭きながら、10年前のことを考えた。
清峰駅の改札前で、俺は2時間前に着いていた。
何も変わっていない。
それが少し、おかしかった。
(おかしくない。)
(お前のそばにいたかった。10年前も、今も。)
(それだけのことだ。)
第48話。10年後。カフェで初めて「なんでここにしたの?」と聞かれた日。リュウは答えた。キョンも答えた。「名前のない関係」が10年続いた理由が、ここで初めて両方から出てきた。「来たら何か言いそうで、来なかった」と言ったのは、お互いのことだと思います。




