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時をかけるアラフォー 〜あの子には性別がない〜  作者: 双子相
第4幕(ep46〜50)卒業後・パートナーへ
48/50

第48話 関東を離れなかった理由


 10年が経った。


 南浜大を出て、商社に3年勤めて、辞めた。


 辞めた理由は色々あるが、一番正直な理由は「38歳の自分がやっていた仕事と、全然違う」だった。前の人生で積み上げたものが、このルートでは使えない。それに気づくのに3年かかった。


 辞めてから、カフェを開いた。


 清峰から2駅、小さな商店街の端。10席しかない店。名前は「ストック」。理由は特にない。響きが好きだった。


 豆はブラジルとエチオピアのブレンドを使っている。フィルターで落とす。時間をかける。前の人生で身についた飲み方の感覚が、今の手に残っていた。それだけで商売になるとは思っていなかったが、3年目から常連が定着した。


 投資は大学時代から細々とやっていた。リーマンショックの底値で仕込んで、EU離脱の前に動いて、大統領選の結果を読んで動いた。前の人生で「そうなった」と知っていることを、ただ粛々と実行した。


 チートと言えばチートだ。


 ただ、38歳の自分が戻ってきた意味がそれだけだとも思っていない。


---


 キョンとは、ずっと連絡が続いていた。


 メールがLINEになって、たまに会う頻度は年に3〜4回。キョンは服飾の道に進んで、今はフリーのデザイナーをやっている。小さなブランドの立ち上げを手伝ったり、展示会に出したり。


 名前のない関係のまま、10年が経った。


 それを「止まっている」とは思っていない。ただ、形がない。


 (形がないまま、10年だ。)

 (俺はそれでよかった。お前のペースを待っていた。)

 (ただ——こんなに長くなるとは、最初は思っていなかった。)


---


 11月の平日、キョンが店に来た。


 予告なしだった。


 ドアが開いて、見慣れた顔が入ってきた。髪が肩まで伸びていた。黒いコートで、手にトートバッグ。バッグの形が少し特殊だった。自分で縫ったやつだと思った。


「……開いてた?」


「開いてる」


「予約いる?」


「いらない、どうぞ」


 カウンターの端に座った。


 平日の昼過ぎ、他に客は1人だけだった。常連の老人で、いつも文庫本を読んでいく。こちらに気づかなかった。


 コーヒーを出した。キョンはブラックで飲む。これは10年前から変わっていない。


「いい店」


「ありがとう」


「リュウっぽくない」


「どのへんが?」


「落ち着きすぎてる」


 (お前に言われたくない。)


 キョンはカップを手に取って、店の中をゆっくり見た。棚の豆の瓶。壁の手書きメニュー。窓の外の商店街。


「来ようと思ってた。ずっと」


「それで?」


「来なかった」


「なんで」


 キョンが少し間を置いた。


「……来たら、何か言いそうで」


 (落ち着けアラフォー。)

 (10年かけてやっとそれを言った。)


---


 コーヒーを飲みながら、キョンはしばらく店を見ていた。


「なんでここにしたの?」


 唐突だった。


「え?」


「清峰のそば。大学出て、商社入って、辞めて。カフェ開く場所、他にもあったでしょ。なんでわざわざここなの、って、ずっと思ってた。」


 俺はカウンターを拭く手を止めた。


 (来た。)

 (10年かけて、やっと聞いてきた。)

 (落ち着けアラフォー。)


「いい物件だった」


「それだけ?」


「他にも理由があった」


 キョンが俺を見た。


「なに?」


「南浜大が近かった」


「大学、もう出てるじゃん」


「そうだな」


「……」


「商社も近かった」


「辞めてるじゃん」


「そうだな」


 キョンが少し黙った。


「カフェ、別の場所でもよかったんじゃないの?」


「清峰の物件の方が良かった」


「嘘だ」


 (バレてる。)

 (10年経っても、お前は同じ顔でそれを言う。)


---


 俺はコーヒーをもう一杯淹れた。


 自分の分。カウンターの内側で、キョンの向かいに立った。


 (どこかで言わないといけない。)

 (名前のない関係のまま10年が経った。)

 (このまま10年が続くかもしれない。)

 (それでも俺はここにいる。なぜここにいるか、聞かれた。答える。)


「正直に言うと」


「うん」


「お前がいるから」


 キョンが動かなかった。


「……10年、それだけでここにいたの?」


「それだけじゃない。ただ、一番でかい理由ではある」


 しばらく沈黙があった。


 窓の外で、商店街の人が自転車で通り過ぎた。


「なんか」とキョンが言った。「ずるい」


「何が?」


「そういうこと、さらっと言うの」


「聞いたのはお前だ」


「……そうだけど」


 キョンがコーヒーカップを両手で持った。


「私も」


 小さかった。


「大学、どこにするか迷ってたとき。この辺にしたのは、リュウがいたから、っていうのが、あった。」


 (……。)


 (知らなかった。)


 (38年分の記憶にも、それはない。)


 (前の人生では、こういう話をしなかった。)


 (お前が大学をどこにしたか、俺は知らなかった。知ろうとしていなかった。)


 (今回は、知った。)


「そうか」


「うん」


 またしばらく黙った。


 悪くない沈黙だった。


 (落ち着けアラフォー。)


 (今のお前に「だから名前をつけよう」と言うのは、まだ違う。)


 (ただ、聞けた。聞いてもらえた。)


 (それで今は、十分だ。)


---


 キョンは1時間ほどいて、帰った。


 「また来る」と言った。


 俺は「また来てくれ」と言った。


 ドアが閉まった。


 商店街に、コートの後ろ姿が消えた。


 常連の老人が本を閉じた。「いい店だな」と言った。「ありがとうございます」と俺は言った。老人が帰った。


 店に一人になった。


 俺はカウンターを拭きながら、10年前のことを考えた。


 清峰駅の改札前で、俺は2時間前に着いていた。


 何も変わっていない。


 それが少し、おかしかった。


 (おかしくない。)

 (お前のそばにいたかった。10年前も、今も。)

 (それだけのことだ。)


第48話。10年後。カフェで初めて「なんでここにしたの?」と聞かれた日。リュウは答えた。キョンも答えた。「名前のない関係」が10年続いた理由が、ここで初めて両方から出てきた。「来たら何か言いそうで、来なかった」と言ったのは、お互いのことだと思います。

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