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時をかけるアラフォー 〜あの子には性別がない〜  作者: 双子相
第4幕(ep46〜50)卒業後・パートナーへ
47/50

第47話 non-binary という文字列


 キョンから連絡が来たのは、6月の終わりだった。


```

ちょっと聞いていい?

 ─ キョン

```


 「ちょっと」で始まるやつは、だいたいちょっとじゃない。


 38年分の経験則がそう言っている。


(落ち着けアラフォー。まず返せ。)


```

何。

```


 少し間があった。


```

勉強会で海外の資料読んでたら

non-binary って言葉が出てきた

どういう意味か知ってる?

```


 俺はガラケーを持ったまま、しばらく動かなかった。


(知ってる。)


(知ってるどころじゃない。)


(お前が20年かけて辿り着く言葉を、俺は最初から知っていた。)


(お前がいつかこれに出会うことも、知っていた。)


(ただ、こんなに早いとは思っていなかった。)


---


 返信を打つのに、3分かかった。


```

男でも女でもない、

またはどちらでもある、

という性自認のこと。

英語圏では割と使われてる概念。

```


 また間があった。今度は少し長かった。


```

……そういう概念、あるんだ

```


```

ある。

```


```

日本語だと何て言うの?

```


```

まだ訳語が定着してない。

「ノンバイナリー」そのままか、

「性別なし」とか「どちらでもない」とか。

```


 返信は来なかった。


 俺は南浜大の図書館の自習室で、ガラケーを机に置いた。


(返さなくていい。)


(今のお前には、言葉より先に時間が必要だ。)


---


 3日後、また連絡が来た。


```

また聞いていい?

```


```

何。

```


```

その概念って

生まれつきそういう人がいる、ってこと?

それとも途中でなる?

```


 俺は少し考えた。


 正確に答えることと、今のキョンに届く答えは、少し違う。


```

生まれつき、という人が多い。

ただ、言葉を知るのは後から、という場合がほとんど。

概念がないと、自分でも気づけない。

```


 しばらくして、返信が来た。


```

そっか

```


 それだけだった。


---


 次に会ったのは、7月の最初の週末だった。


 清峰から少し歩いたところにある定食屋。キョンが「ここ好き」と言った店で、俺は初めて入った。


 カウンター席が6つ、テーブルが2つ。昼時を過ぎた時間で、他に客はいなかった。


 日替わり定食を2つ頼んで、お茶が来た。


 キョンはしばらく黙っていた。


 俺も黙っていた。


 急かす必要はない。38年分の待ち方を、俺は知っている。


「……あの言葉さ」


 キョンが言った。


「non-binary。」


「うん」


「勉強会の資料に出てきたのは、服の話だったんだよね。ジェンダーレスファッションの文脈で。」


「そうか」


「で、その資料の中に、デザイナーのインタビューがあって。そのデザイナーが自分のことをnon-binaryって言ってて。」


 キョンは箸置きを指でなぞった。


「なんか変なんだよね、私。ずっと。」


 俺は黙って聞いた。


「女の子らしくしなきゃって思ったことが、あんまりない。かといって男になりたいわけでもない。ただなんか、どっちかに決めろって言われると、そうじゃない気がして。」


「うん」


「変?」


「変じゃない」


 即答した。


 キョンが少し目を上げた。


「……そんなすぐ言える?」


「言える」


(変じゃない。)


(お前はずっとそのままだった。)


(制服を着ていた3年間も、骨格の話をしたあの日も、イヤホンを差し出したあの夜も。)


(お前はずっと、そういうやつだった。)


(俺はそれを知っていて、そのままのお前が好きだった。)


---


 定食が来た。


 鮭の塩焼きと、味噌汁と、小鉢が2つ。


 しばらく2人で食べた。


 食べながら、キョンが言った。


「その言葉が自分に当てはまるかどうかは、まだわかんない。」


「うん」


「でも、そういう概念があるって知っただけで、なんか、少し楽になった気がした。」


「それでいい」


 キョンが俺を見た。


「当てはまるかどうか、急いで決めなくていい。」


 また少し黙った。


「……リュウって、なんでそんなに、そういうこと知ってるの?」


(落ち着けアラフォー。)


「本をよく読んだ」


「どんな本?」


「色々」


 キョンが少し笑った。


「答える気ないじゃん。」


「答えてる」


「答えてない」


(答えられない。)


(20年後の話はできない。)


(ただ俺は、お前がいつかこの言葉に辿り着くと知っていた。)


(思ったより早かった。それだけだ。)


---


 帰りは駅まで一緒に歩いた。


 7月の夕方。まだ明るい。


 改札の前で止まった。


「また連絡する」とキョンが言った。


「うん」


「……ありがとう。」


 小さかった。


「何が?」


「変じゃないって言ってくれたこと。」


(変じゃない。)


(3年間、俺はずっとそう思っていた。)


(言えなかったのは、言葉の問題じゃなかった。)


「本当のことだ」


 キョンが一度だけうなずいた。


 改札を通って、振り返らずに歩いていった。


 俺は改札の前で少し立っていた。


(お前はちゃんと見つける。)


(20年かかると思っていたのに、お前は3ヶ月で海外の資料から拾ってきた。)


(早い。)


(ただ、それがお前らしい。)


 西都線のホームへ向かった。


第47話。言葉が先にある話。概念がないと自分でも気づけない——そのことを、キョンはデザイナーのインタビューから学んだ。リュウは最初から知っていた。でも言えなかった。「本をよく読んだ」は、この話で一番正直な嘘だと思う。

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