第47話 non-binary という文字列
キョンから連絡が来たのは、6月の終わりだった。
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ちょっと聞いていい?
─ キョン
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「ちょっと」で始まるやつは、だいたいちょっとじゃない。
38年分の経験則がそう言っている。
(落ち着けアラフォー。まず返せ。)
```
何。
```
少し間があった。
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勉強会で海外の資料読んでたら
non-binary って言葉が出てきた
どういう意味か知ってる?
```
俺はガラケーを持ったまま、しばらく動かなかった。
(知ってる。)
(知ってるどころじゃない。)
(お前が20年かけて辿り着く言葉を、俺は最初から知っていた。)
(お前がいつかこれに出会うことも、知っていた。)
(ただ、こんなに早いとは思っていなかった。)
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返信を打つのに、3分かかった。
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男でも女でもない、
またはどちらでもある、
という性自認のこと。
英語圏では割と使われてる概念。
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また間があった。今度は少し長かった。
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……そういう概念、あるんだ
```
```
ある。
```
```
日本語だと何て言うの?
```
```
まだ訳語が定着してない。
「ノンバイナリー」そのままか、
「性別なし」とか「どちらでもない」とか。
```
返信は来なかった。
俺は南浜大の図書館の自習室で、ガラケーを机に置いた。
(返さなくていい。)
(今のお前には、言葉より先に時間が必要だ。)
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3日後、また連絡が来た。
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また聞いていい?
```
```
何。
```
```
その概念って
生まれつきそういう人がいる、ってこと?
それとも途中でなる?
```
俺は少し考えた。
正確に答えることと、今のキョンに届く答えは、少し違う。
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生まれつき、という人が多い。
ただ、言葉を知るのは後から、という場合がほとんど。
概念がないと、自分でも気づけない。
```
しばらくして、返信が来た。
```
そっか
```
それだけだった。
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次に会ったのは、7月の最初の週末だった。
清峰から少し歩いたところにある定食屋。キョンが「ここ好き」と言った店で、俺は初めて入った。
カウンター席が6つ、テーブルが2つ。昼時を過ぎた時間で、他に客はいなかった。
日替わり定食を2つ頼んで、お茶が来た。
キョンはしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。
急かす必要はない。38年分の待ち方を、俺は知っている。
「……あの言葉さ」
キョンが言った。
「non-binary。」
「うん」
「勉強会の資料に出てきたのは、服の話だったんだよね。ジェンダーレスファッションの文脈で。」
「そうか」
「で、その資料の中に、デザイナーのインタビューがあって。そのデザイナーが自分のことをnon-binaryって言ってて。」
キョンは箸置きを指でなぞった。
「なんか変なんだよね、私。ずっと。」
俺は黙って聞いた。
「女の子らしくしなきゃって思ったことが、あんまりない。かといって男になりたいわけでもない。ただなんか、どっちかに決めろって言われると、そうじゃない気がして。」
「うん」
「変?」
「変じゃない」
即答した。
キョンが少し目を上げた。
「……そんなすぐ言える?」
「言える」
(変じゃない。)
(お前はずっとそのままだった。)
(制服を着ていた3年間も、骨格の話をしたあの日も、イヤホンを差し出したあの夜も。)
(お前はずっと、そういうやつだった。)
(俺はそれを知っていて、そのままのお前が好きだった。)
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定食が来た。
鮭の塩焼きと、味噌汁と、小鉢が2つ。
しばらく2人で食べた。
食べながら、キョンが言った。
「その言葉が自分に当てはまるかどうかは、まだわかんない。」
「うん」
「でも、そういう概念があるって知っただけで、なんか、少し楽になった気がした。」
「それでいい」
キョンが俺を見た。
「当てはまるかどうか、急いで決めなくていい。」
また少し黙った。
「……リュウって、なんでそんなに、そういうこと知ってるの?」
(落ち着けアラフォー。)
「本をよく読んだ」
「どんな本?」
「色々」
キョンが少し笑った。
「答える気ないじゃん。」
「答えてる」
「答えてない」
(答えられない。)
(20年後の話はできない。)
(ただ俺は、お前がいつかこの言葉に辿り着くと知っていた。)
(思ったより早かった。それだけだ。)
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帰りは駅まで一緒に歩いた。
7月の夕方。まだ明るい。
改札の前で止まった。
「また連絡する」とキョンが言った。
「うん」
「……ありがとう。」
小さかった。
「何が?」
「変じゃないって言ってくれたこと。」
(変じゃない。)
(3年間、俺はずっとそう思っていた。)
(言えなかったのは、言葉の問題じゃなかった。)
「本当のことだ」
キョンが一度だけうなずいた。
改札を通って、振り返らずに歩いていった。
俺は改札の前で少し立っていた。
(お前はちゃんと見つける。)
(20年かかると思っていたのに、お前は3ヶ月で海外の資料から拾ってきた。)
(早い。)
(ただ、それがお前らしい。)
西都線のホームへ向かった。
第47話。言葉が先にある話。概念がないと自分でも気づけない——そのことを、キョンはデザイナーのインタビューから学んだ。リュウは最初から知っていた。でも言えなかった。「本をよく読んだ」は、この話で一番正直な嘘だと思う。




