第45話 言う
3月15日。
朝、目が覚めたとき、まず天井を見た。
晴れていた。
(落ち着けアラフォー。)
(今日だ。)
(38年分の今日だ。)
鏡の前で制服のネクタイを締めた。
3年間、何百回としてきた動作だ。
でも今日で最後だ、と思ったら、少し手が止まった。
(落ち着けアラフォー。)
(ネクタイごときで止まるな。)
下に降りたら、母さんが台所にいた。
「リュウ、今日卒業式でしょ。写真撮らせて!」
「帰ってきてから。」
「今の顔を撮りたいの! 今日の顔は今日しかないんだから!」
(母さん。)
(それは正しい。)
「……1枚だけ。」
ガラケーで撮られた。
母さんのガラケーに、今日の俺が残る。
(元の歴史では、この顔はなかった。)
(あの卒業式の朝は、こんな顔をしていなかった。)
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学校に着いた。
廊下に、在校生が作った花のアーチが飾ってあった。
(自分たちも去年やった。)
(今年は、ちゃんと見ながら歩いている。)
式が始まった。
校長の話が始まった。
内容は標準的だった。でも今日は全部入ってきた。
(38年生きて、高校の卒業式を2回経験している。)
(1回目は何も覚えていない。キョンに振られた後で、全部がぼんやりしていた。)
(今回は、ちゃんと聞いている。)
卒業証書の授与が始まった。
「柳 龍。」
立って、前に出た。
証書を受け取った。
席に戻りながら、隣の列にキョンが見えた。
式服の白いブラウス。髪をまとめていた。いつもと少し違う。
(落ち着けアラフォー。席に戻れ。)
「今日、言う」という言葉が頭の底からずっと響いていた。
式の音楽が聞こえるのと同じ場所に、その言葉がいた。
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式が終わった。
脇役たちが来た。
ユースケが「高校終わりだ!!」と叫んで、俺が「宇宙に行け」と言った。
バータが「外部受験の結果、来週出る」と言って、俺が「受かる」と答えた。
バータが「またそういう確信で言う」と言って、「まあ」で終わった。
フミは廊下の端にいた。
「フミ。お疲れさまでした。」
「お前も。」
「今日、やるか。」
「やれ。」
今日はそれだけだった。
でもフミが最後に小さく言った。
「——お前と同じ高校に来て、よかった。」
(フミ。)
(お前がそれを言うのは、本当にそう思っているときだけだ。)
「俺もだ。」
フミが去った。
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ミナミが走ってきた。
「柳くん!!今日キョンに言うやつ、やるの?!」
(声がでかい。廊下に響いている。)
「……まあ。」
「やったー!!!」
サナが「声でかい」と言った。
リサが「確率は高い方だと思います」と言った。
「ありがとう。3人とも。」
「キョンのこと、ちゃんとしてあげてね。」
ミナミが声を低くして言った。
「ちゃんとする。」
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人が減ってきた。
キョンを探した。
教室にいた。
最後の荷物をリュックに入れていた。
ロッカーの内側に、何か貼ってあった。
布の切れ端だった。小さい。白に近いベージュ。
(あの布だ。)
(ロッカーの内側に、今日持ってきたんだ。)
胸の奥が、少し動いた。
(落ち着けアラフォー。)
キョンが振り返った。
「……リュウ。」
「うん。」
「終わったね。」
「終わった。」
キョンがリュックを背負った。
布の切れ端をそっと剥がして、手の中に持った。
「外、行かない?」
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校庭に出た。
晴れていた。
3月の光が、校庭の端まで届いていた。
桜のつぼみが光の中でじっとしていた。
2人で並んで歩いた。
体育館の方からまだ話し声が聞こえてきたが、校庭には俺たちだけだった。
(今だ。)
「キョン。」
「うん。」
「昨日、「待てる?」って聞いてきただろ。」
「……うん。」
「俺も今日、言おうと思ってた。式の後に。」
キョンが立ち止まった。
「……言おうとしてたの。」
「してた。」
「何を。」
(落ち着けアラフォー。)
(38年分の準備だ。)
(ちゃんと言え。)
「好きだ。」
校庭に、3月の風が吹いた。
キョンが俺を見た。
動かなかった。
3秒。
4秒。
「……うん。」
(——。)
「キョン。」
「うん。」
「「うん」って、どういう意味だ。」
キョンが少し考えた。
「……知ってた。」
「いつから。」
「……わからない。ずっと前から。なんかずっと、そうだと思ってた。」
「俺が聞きたいのは、キョンはどうなのかだ。」
また風が来た。
キョンの髪が揺れた。
「……私は。」
間があった。
「好きかどうか、わからなかった。ずっと。みんなが言う「好き」と、私の感じてることが同じかどうか、ずっとわからなかった。」
「わかる。」
「……なんでわかるの?」
「キョンのことを、ずっと見てたから。」
キョンが俺を見た。
何か言いかけて、止まった。
「でも——」
「うん。」
「リュウと電車乗ってるときとか、MDの曲聴いてるときとか。なんか、ここにいたいって思ってた。リュウのそばってこと。名前がついてなかったけど。」
(「名前がついてなかったけど」。)
(キョン。)
「それで十分だ。」
「……十分?」
「名前がなくても、お前がそこにいたいと思ってくれてたなら、それで十分だ。」
「でも私、みんなみたいに「好き」って言えないかもしれない。これからも。」
「知ってる。」
「……知ってる、って。」
「ずっと見てたから。」
キョンが、少しだけ息を吐いた。
「……じゃあ。」
「うん。」
「私は——リュウのそばにいたい。それだけ、言える。」
(落ち着けアラフォー。)
(落ち着けアラフォー。)
(「リュウのそばにいたい」とキョンが言った。)
「それで十分だ。」
「同じこと言ってる。」
「同じことだから。」
キョンが少し困ったような顔をした。
でもその顔の中に、俺には見えるものがあった。
「……変なの、リュウって。」
「そうか。」
「うん。変。でも——いい変、だと思う。」
(落ち着けアラフォー。)
(38歳が17歳の体で立ったまま崩れ落ちそうになってる。)
(しっかりしろ。)
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しばらく、2人で校庭に立っていた。
特に何も言わなかった。
でも黙っていることが、今日は全然苦じゃなかった。
「帰る?」
キョンが先に言った。
「帰る。」
「……電車、一緒に乗っていい?」
(——。)
(落ち着けアラフォー。)
(「一緒に乗っていい?」と、キョンから聞いてきた。)
「清峰まで一緒だろ。当たり前だ。」
キョンが少し下を向いた。
「……そうだね。」
その声が、少し柔らかかった。
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学校を出た。
中丸駅まで2人で歩いた。
特に急がなかった。
特に何も喋らなかった。
(落ち着けアラフォー。)
(「一緒に帰る」が普通のこととして起きている。)
(3年間、どれだけこれを望んでいたか。)
中丸駅の改札を通った。
ホームで電車を待った。
キョンがポケットに手を入れた。
MDウォークマンを出した。
右のイヤホンを外した。
俺の方に、差し出した。
(来た。)
(今日も。)
受け取った。
「ずっとここにいる」が流れ始めた。
「探していた
言葉が見つからなくて
代わりに
ここに来た」
(落ち着けアラフォー。)
(今日キョンが「名前がついてなかった」と言った。)
(この曲はずっと、そういう話をしていたんだ。)
電車が来た。乗り込んだ。
2人とも立ったまま、窓の外を見た。
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北池で乗り換えた。
西都線のホームに降りた。
いつもと逆だった。
行きは清峰でキョンが乗ってくる。
帰りは中丸から2人で乗る。
でも今日は——初めて、「帰りに2人でここに立っている」という感覚があった。
(3年間、毎日帰りの電車で隣に立ってたのに。)
(今日だけ、なんか違う。)
(落ち着けアラフォー。)
電車が来た。乗り込んだ。
空いていた。2人とも立ったまま。
MDがまだ流れていた。
「言葉より先に
体が知っていた
ここが
居場所だって」
窓の外を、3月の景色が流れていった。
田んぼ。線路沿いの家。何度も見た景色だ。
キョンも窓の外を見ていた。
同じ景色を、隣で見ていた。
(これが最後の「いつもの帰り」だ。)
(来週からは、ここにキョンはいない。)
(でも——終わりじゃない。)
(「できたら連絡する」と言う。そのはずだ。)
ふと、キョンが俺を見た。
「……ねえ。」
「うん。」
「さっきロッカーの布、見た?」
「見た。」
「……あれ、今日持ってきた。」
「なんで。」
「卒業式だから。持ってきたかった。」
(——。)
(落ち着けアラフォー。)
(卒業式の日に、持ってきた。)
「……そうか。」
「……うん。」
またしばらく黙った。
でも今度の沈黙は、さっきと少し重さが違った。
---
清峰駅のアナウンスが入った。
キョンが動いた。
イヤホンを外した。
俺も外して、渡した。
キョンが受け取って、ウォークマンをポケットにしまった。
そのまま俺の方を見た。
「リュウ。」
「うん。」
「さっき「好きだ」って言ったじゃん。」
「言った。」
「……あれ、ちゃんと聞こえた。」
(落ち着けアラフォー。)
(落ち着けアラフォー。)
(今日一番ここで「落ち着けアラフォー」が来た。)
「そうか。」
「うん。」
「——よかった。」
(——。)
(俺が「よかった」と言った。)
(ちゃんと言えた、ということの「よかった」だ。)
(でもキョンは、少しだけ目を細めた。)
ドアが開いた。
キョンが降りた。
ホームに立って。
振り返った。
1回だけ。
俺はドアの内側から、それを見ていた。
ドアが閉まった。
電車が動き始めた。
窓の向こうで、ホームがゆっくり遠ざかった。
キョンの姿が、流れていった。
---
小手川まで、一人で乗り続けた。
右のイヤホンは、ない。
MDウォークマンも、ない。
でも耳の奥に「ずっとここにいる」がまだ残っていた。
(言った。)
(言えた。)
(元の歴史では声が出なかった。)
(今回は、ちゃんと言えた。)
(キョンは「リュウのそばにいたい」と言った。)
(卒業式の日に布を持ってきたと言った。)
(「ちゃんと聞こえた」と言った。)
(名前はまだない。でも——)
(「名前のない感情」のための曲を作ったバンドがいた。)
(その曲を、俺たちは今日も一緒に聴いた。)
(20年後、お前はその名前を見つける。)
(俺はそれまで、ここにいる。)
(落ち着けアラフォー。)
(泣くな。電車の中で泣くな。)
(……今日だけは、いいか。)
電車が小手川駅に滑り込んだ。
ドアが開いた。
降りた。
空が、青かった。
第45話。「好きだ」を言いました。キョンは「リュウのそばにいたい」と言いました。「卒業式の日に持ってきた」と言いました。「ちゃんと聞こえた」と言いました。一番キュンとしたのはどこか、自分でもわかっています。ロッカーの布です。次回——布が完成する日。




