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時をかけるアラフォー 〜あの子には性別がない〜  作者: 双子相
第2幕(ep20〜36)「3年生・勝負の年」
32/50

第32話 帰りの電車。右のイヤホンで2曲聴いた


 代々木から乗り換えて、西都線に入ったのが14時を少し過ぎた頃だった。


 平日の昼過ぎ。

 夏休み中の学生が、それなりにいた。

 でも混んでいるというほどでもなく、2人で並んで立てる隙間はあった。


 (問題はここからだ。)

 (「帰りに聴かせる」と言った。俺も「覚えてる」と言った。)

 (合意は成立している。後は誰かが「じゃあ」と言うだけだ。)

 (なのになぜ、お互い何も言い出していないんだ。)


 キョンは窓の外を見ていた。

 景色が、夏の午後を流れていく。

 リュックをお腹の前に持ち直して、ドアの横に寄りかかっていた。


 俺はキョンの左側に立っていた。


 (清峰まで、まだある。)

 (キョンが降りたら、俺はその先の小手川まで乗り続ける。)

 (早く言い出した方がいい。でも言い出せない。)

 (落ち着けアラフォー。38歳がなんで高校生に詰まってるんだ。)


 キョンが動いた。


 リュックのサイドポケットから、MDウォークマンを取り出した。

 本体と、ヘッドホンが一緒に出てきた。


 (来た。)


 「……聴く?」


 (聴く、というか。)

 (俺は今日ずっとそれを待っていた。)


 「聴く。」


 キョンが右のイヤホンを外した。

 少し間があった。

 俺の方に、手を差し出した。


 (来た。)

 (本当に来た。)

 (落ち着けアラフォー。受け取れ。普通に受け取れ。)


 俺はそれを受け取った。


 (軽い。)

 (プラスチックの、イヤホン1個分の重さしかない。)

 (なのに手の中で、やたら存在感がある。)

 (落ち着けアラフォー。イヤホンだ。ただのイヤホンだ。)


 キョンが再生ボタンを押した。


---


 最初の数秒は、ギターのアルペジオだった。


 リバーブがかかっている。

 遠いところから聞こえてくる感じ。

 でも音が細いわけじゃなく、一音一音に重さがある。


 (……これが、NOIR EDGEか。)


 ベースが入ってきた。

 静かだけど、芯がある。

 ドラムが最後に来て、全部が揃った。


 そしてボーカルが入った。


---


 歌詞は、最初からそういう感じだった。


 「どこかにあるはずの 名前のない感情

  それに触れるたびに 少し遠くなる」


 (名前のない感情。)

 (キョンが、これを聴いていた。)

 (何年も、これを聴いていた。)


 「誰かに渡せないものを

  持ったまま歩いてる

  それでいい気がした

  今日だけは」


 (持ったまま歩いてる。)

 (俺もそうだ。)

 (言えないことを、ずっと持ったまま歩いてる。)


 (落ち着けアラフォー。歌詞に持っていかれるな。)


 でも電車の揺れの中で、右のイヤホン1個分の音楽が、するすると入ってきた。

 フィルターが上手く機能しなかった。


---


 1曲が終わった。


 キョンが再生を止めた。


 (沈黙。)

 (止まっている。)

 (俺もキョンも、何も言わない。)


 窓の外を、夏の住宅地が流れていた。


 (なんて言えばいい。)

 (「いい曲だ」は嘘じゃない。でも足りない。)

 (「歌詞が刺さった」は正直すぎる。でも正直すぎることの何がまずい?)


 「……どうだった。」


 キョンが先に口を開いた。


 静かな声だった。

 聞こえるか聞こえないかの声だった。


 (これがキョンの「本当に聞きたいときの声」だ、と気づいた。)


 「……いい曲だ。」


 「……そう。」


 (もっと言え。)

 (「いい曲だ」で終わるな。)


 「歌詞が、どこにも属せない感じがするやつだった。」


 キョンが動いた。

 窓の外から、こちらを向いた。


 「……聴こえた?」


 「聴こえた。一回で聴こえた。」


 「……すごいね。」


 (すごいね、か。)

 (褒めてくれてるのか、驚いているのか。)


 「キョンがずっと聴いてた理由がわかる気がした。」


 「……なんで。」


 「「名前のない感情」って言葉。あれは、あの言葉しかなかったと思う。他の言い方だと、なんか違う。」


 キョンが少しの間、黙った。

 俺の言ったことを確かめるみたいに、どこかを見ていた。


 「……そう。他の言葉じゃ、なんか嘘になる。」


 (なんか嘘になる。)

 (それがNOIR EDGEを聴いていた理由か。)

 (名前のない感情に、ちゃんと「名前のない」と言ってくれる言葉を探していた。)


 (お前が感じている「名前のない」には、ちゃんと名前がある。)

 (ただ、この時代にはまだその言葉が存在しない。)

 (20年後、お前はちゃんと自分の言葉を見つける。)

 (今は待つだけだ。)


 俺は電車の揺れに合わせて、少し黙った。


 「もう1曲、聴いていいか。」


 キョンが再生ボタンを押した。


---


 次の曲は、1曲目より少し速かった。


 ギターがざらついていた。

 ボーカルが低いところから始まって、サビで少し上がる。

 それほど劇的な展開はないのに、どこか切実だった。


 「居場所を探してる

   地図もないのに

   でもどこかにあると思ってる

   だから歩ける」


 (だから歩ける。)

 (居場所がないのに歩けるのは、どこかにあると思っているからか。)

 (キョンはこれを、何度も聴いた。)


 隣でキョンが目を細めた。

 窓の外を見ているのか、音楽を聴いているのか、わからない顔だった。


 (この曲を聴くときの顔は、展示会でYusei Nishimotoの服を見ていた顔と同じだ。)

 (言語が要らない時間。)

 (受け取っている。)


 (俺はまだ言ってない。)

 (でも今、この時間だけは、言わなくていいと思っていた。)

 (言うより大事なことが、今起きている気がした。)


---


 清峰駅のアナウンスが入った。


 キョンが再生を止めた。


 「着いたから降りるね。」


 「うん。」


 キョンがイヤホンを外した。

 俺も外して、渡した。


 キョンが受け取った。

 ヘッドホンを巻き戻してポケットにしまった。


 「……今日、来てくれてよかった。」


 「俺も。」


 ドアが開いた。


 キョンが降りる前に、少し立ち止まった。

 振り返った。


 「……NOIR EDGE。好きになれそう?」


 「なった。2曲で。」


 キョンがほんの少し目を細めた。

 それから改札の方を向いて、歩き出した。


 1回も振り返らなかった。


 ドアが閉まった。

 電車が動き出した。


---


 小手川まで、また20分かかった。


 (NOIR EDGE。)

 (名前のない感情。)

 (居場所を探してる、地図もないのに、でもどこかにあると思ってる——だから歩ける。)


 (これが、キョンが聴いてきた音楽だった。)


 (俺はまだ言ってない。)

 (でも今日、右のイヤホンで2曲聴いた。)

 (「好きになれそう?」に「なった」と答えた。)


 (準備が、また少し整った。)


「好きになれそう?」という問い方に「なった。2曲で。」と即答できたのが、このepの全部です。「好きか?」じゃなく「好きになれそう?」にしたのはキョンらしさ。「なった」の一言がリュウの返事として完璧すぎる。

次回——夏休み終盤。「次、何か聴かせるよ」が来ます。

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