第31話 展示会当日。ライバルと鉢合わせ。「ずっと見てた」を言った
山岸が来た。「悪いやつじゃない」のが一番やっかいです。「キョンに任せる」は計算じゃなく反射——でもそれが正解でした。そして「ずっと見てた」。「好き」じゃないけど「好き」の1個手前まで来ました。
次回——帰りの電車で、NOIR EDGEが流れます。
清峰駅の改札を出たのが9時58分だった。
(早すぎた。)
(「10時に」と送ったはずなのに、9時43分の電車に乗っていた。)
(なんで10分早く家を出た。38歳がビビるな。)
駅前のロータリーで、日陰を探した。
8月の日差しが、正面から来ている。
コンビニの軒下に滑り込んで、ガラケーの時計を確認した。
9時59分。
(1分。)
「リュウ。」
声がした。
振り向いたら、キョンがもう来ていた。
(俺より早かった。)
「早いな。」
「……リュウも早い。」
「10時に来ようとして、9時58分になった。」
キョンがわずかに口角を上げた。
笑いを表に出さない。でも出てた。
「私も同じだった。」
(同じだった。)
(落ち着けアラフォー。重要なことじゃない。でも少し嬉しかった。)
(少しだけ。)
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代々木まで、電車で20分ほどかかった。
キョンはリュックに何かを入れてきていた。
折り畳みのカタログか、ノートか。
ずっと膝の上に置いていた。
「今日の展示会、何が目当てだ。」
「国内の若手が多い回。学校の先生が教えてくれた。年に1回あるやつ。」
「先生も来るのか。」
「来るかもしれない。あ、でも別に。リュウに関係する話じゃないよ。先生は先生で来る感じだから。」
(フォローが入った。)
(俺と先生の間に何かあると思ったのか。ない。)
(でも、「別にいい」と言いたかったんじゃなくて、「リュウと一緒に来たかった」という意味に読めなくもない。)
(落ち着けアラフォー。脳内変換するな。)
「わかった。」
「……楽しめるかな。服に興味ない人が来ると、つまらないんじゃないかと思って。」
(少し前、キョンはこういうことを言わなかった。)
(「来てほしい」を言葉にするようになってきている。)
「俺が行きたいと思ったから行く。」
キョンがまた少し黙った。
電車の揺れが、2人の間にあった。
「……そっか。」
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会場は、ビルの3フロアを使った展示スペースだった。
入口でパンフレットをもらった。
キョンがすぐに開いて、出展ブースの番号を確認し始めた。
(このモードのキョンは速い。)
(目が違う。)
「先に見たいのはあるか。」
「……3フロアの、端から2番目。Yusei Nishimotoってやつ。」
「先に行こう。」
「いいの?」
「俺はどこでも同じだ。キョンが見たいものを先に見た方がいい。」
キョンが少し考えてから歩き出した。
俺は横に並んだ。
(展示会だ。)
(服があって、人がいて、光がある。)
(38歳で来たらどう思うのか。今の俺には想像がつかない。)
(でもキョンが「見たい」と言った場所は、俺も見たい。)
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3フロアへのエスカレーターを上りながら、キョンが口を開いた。
「ねえ。」
「何か。」
「昨日のメール。変なこと聞いてごめん。」
(変なこと。)
(「好きな曲って、どうやって好きになった?」の話だ。)
「変じゃなかった。」
「……NOIR EDGEって言っちゃったから、なんか急に恥ずかしくなって。」
(昨夜、向こうから言った。)
(「恥ずかしくなった」というのは、言った後に気づいたということだ。)
「なんで恥ずかしいんだ。」
「……なんか、変なの聴いてるって思われそうで。」
(変、か。)
(変じゃない。でも2005年にビジュアル系のインディーズを聴いている女子高生を、そう見る人間はいると思う。)
(俺は思わないが。)
「変だとは思わない。」
「……なんで言いきれるの。聴いたことないのに。」
(正論だった。)
(聴いたことがない。俺はまだ正式に聴いていない。)
「……聴いてみたい。本当に。昨日も言ったけど。」
キョンが前を向いたまま、少しだけ口を開いた。
「……じゃあ、今日。帰りに。」
(帰りに。)
(今日、帰りに。)
(落ち着けアラフォー。エスカレーターから落ちるな。)
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Yusei Nishimotoのブースは、端の角にあった。
服が5着、マネキンに飾られていた。
白と黒と、くすんだ緑だけを使っている。
シルエットが少し崩れている——正確には、「崩れているように計算されている」という感じだった。
キョンが止まった。
(動かない。)
(声もかけない。ただ見ている。)
俺は横に立って、同じ方向を見た。
(これが「服を見る」ということか。)
(説明は要らない。近づいて触れるわけでもない。ただ、そこにあるものを受け取っている。)
(キョンにとって、これは言語が要らない時間なんだ。)
しばらくして、キョンが動いた。
マネキンの横に寄って、生地の端をそっと指で触れた。
少しして離した。
「……縫い目が、外に出てる。」
「わかるのか。」
「わかる。なんでそうしたか、もわかる。」
(なんでそうしたか、もわかる。)
(俺には全然わからない。)
「なんでだ。」
「……縫い目を隠したら、完璧になりすぎるから。完璧な服って、着る人を選ぶ。選ばれた人しか着れない感じになる。縫い目が見えてると、人間みたいになる。」
(人間みたいになる。)
(この言い方が、キョンだ。)
(「完璧じゃない方が近づける」を、キョンは「人間みたい」という言葉にした。)
「……それがいいと思うか。」
「思う。着る人を選ばない服が好き。」
(生徒会室で、最初に聞いた言葉だ。)
(キョンはずっと、同じことを言っている。)
(俺はまだ言ってない。)
(でも今日、何かが変わるかもしれない。)
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2フロアを見て回るうちに、30分が過ぎた。
そのとき、声がした。
「橘さん! 来てたんですか。」
(山岸だ。)
3フロアから上がってきたところで、鉢合わせた。
背が高い。清潔感がある。
「悪いやつじゃない」というフミの評価が、外見から正しいとわかる顔だった。
(これがいい評価だと思いたくない。でも実際にいいと思う。)
(38歳の客観的判断だ。くそ。)
「あ。山岸くん。」
キョンが答えた。
山岸が俺の方を見た。
「あ、柳くんも。同じ回か。」
「ああ。」
山岸がパンフレットを手に持っていた。
「俺、今から3フロア回ろうと思ってて。橘さん、もう見ました?」
「見た。」
「どうでした?」
「……良かった。」
(短い。)
(キョンがそれ以上言わないのは、山岸への返答がそれだけだったからだ。)
(俺には「なんでそうしたかもわかる」まで言った。)
(落ち着けアラフォー。そういう話をするな。)
(でもそれは事実だ。)
山岸が少し考えてから言った。
「一緒に回りませんか。橘さんが見た後の方が、説明してもらえそうで。」
(真っ直ぐだ。)
(断りにくいように包む余計な前置きもない。シンプルに誘っている。)
(これは強い。38歳から見ても、強い誘い方だ。)
キョンが、俺を見た。
(俺を見た。)
(「どうする?」じゃない。でも視線で、聞いている。)
俺は山岸を見て、それからキョンを見た。
「俺は今日の目当てをもう見たから、キョンに任せる。」
(言えた。)
(計算じゃない。反射だった。)
(「俺が決める」じゃなく「キョンが決める」を選んだ。それが正しかった。たぶん。)
キョンが短く言った。
「……じゃあ1フロアだけ。私も見たいのあるから。」
山岸が「ありがとうございます」と言った。
3人で1フロアに向かった。
(俺はまだ言ってない。)
(でも今は、それでいい。)
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1フロアの展示を一周して、山岸が別のブースに声をかけに行った。
俺とキョンが、少し空いた。
「ねえ。山岸くん、すごく真っ直ぐだよね。」
(キョンが言った。)
(「真っ直ぐ」。それが山岸への評価だ。)
(好意ではなく、観察だ。でも観察していることに変わりない。)
「そうだな。」
キョンがブースの服を見ながら、続けた。
「リュウって、真っ直ぐに見えないのに、真っ直ぐなときがある。」
(なんだそれ。)
「どういう意味だ。」
「……なんか、迷ってる感じがするけど、迷ったままちゃんとした方を選ぶ。なんでかわからないけど、そういうふうに見える。」
(38年生きてきた俺への評価が、それだった。)
(「迷ってる感じがするけど、ちゃんとした方を選ぶ」。)
(あながち間違いじゃない。苦しいが。)
(俺はまだ言ってない。)
(迷ってる。でも今日、何かを選ぶかもしれない。)
「……それで合ってる。」
キョンが少し振り向いた。
「そうなの。」
「迷うのは本物だ。でもどっちが正しいかは、だいたい最初からわかってる。」
キョンが黙った。
服を見ながら、何かを考えていた。
「……私も、そういうことあるかな。」
「あると思う。」
「なんで言いきれるの。」
(今日2回目だ。「なんで言いきれるの」。)
「見てるから。」
キョンが服から目を離して、俺を見た。
1秒。
2秒。
それから前を向いた。
「……見てたのか。」
「ずっと。」
(言った。)
(「ずっと見てた」を言った。)
(これは「好き」じゃない。でも「好き」の1個手前に来た。)
(落ち着けアラフォー。心拍数が上がっている。)
キョンは何も言わなかった。
でも歩みが、少し遅くなった。
(気づいている。)
(キョンは気づいている。全部じゃないかもしれないけど、何かを。)
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展示会を出たのが13時過ぎだった。
山岸は途中で知り合いに会って、「お先に失礼します」と出ていった。
(真っ直ぐだ。本当に。)
(くそ。)
2人でビルを出た。
日差しが強かった。
「どうする。帰るか。」
キョンが少し間を置いてから言った。
「……さっきの話。帰りに聴かせるって言ったやつ。」
(覚えていた。)
(「帰りに」。)
「覚えてる。」
「……今、ここじゃ無理だけど。電車の中なら。」
(電車の中で、右のイヤホンを。)
(また、あの時間が来る。)
「駅まで歩こう。」
キョンが頷いた。
2人で歩いた。
日差しの中を、2人で歩いた。
(俺はまだ言ってない。)
(でも今日、「ずっと見てた」を言った。)
(キョンが歩みを遅くした。)
(それだけで、今日は十分かもしれない。)
(十分じゃないかもしれない。)
(でも——今日の帰りの電車で、NOIR EDGEを聴く。)
(それは確定した。)
キョンの右側に並びながら、俺は思った。
(言う準備が、少しずつ整っている。)
(急がなくていい。でも止まるつもりもない。)
(俺はまだ言ってない。でも言う。)
代々木の夏の空が、白く広がっていた。




