第30話 前夜「山岸も来るみたい」。NOIR EDGEの名前を初めて聴いた
8月13日。
明日が展示会だった。
今日は学校には行かなかった。
午前中は自宅で参考書を進めた。
AO入試の書類の仕上げに集中した。
(明日は展示会。)
(でも今日の俺はまだ高校生で、受験生で、会長だ。)
(両方やる。それでいい。)
参考書を閉じて、窓の外を見た。8月の昼の空気。蝉の声が断続的に来ていた。
(AO入試の書類は先週仕上げた。面接の準備も大体できている。)
(38歳のSEが高校生の筆跡で書く志望理由書だ。嘘は書いていない。ただ、本当のことを全部は書けない。)
(それはそれとして——明日だ。)
(キョンが「ずっと作ってる服」を、俺は今日まで一度も見ていない。)
(明日、展示会の中で、初めて見る。)
昼過ぎ、ガラケーが鳴った。
キョンからメールが来ていた。
「明日、よろしく。」
(来た。)
(明日が来る。)
「ああ。代々木、何時に着くか決めたか。」
「10時に清峰駅で待ち合わせは? そこから一緒に行けると思う。」
(清峰駅。キョンの最寄り。俺が一駅戻る形になるが、そんなことはどうでもいい。)
「わかった。10時に清峰駅。」
「うん。……今日もなんか作業してた。展示会のやつじゃなくて、ずっと作ってる服。」
「終わったか。」
「半分くらい。夏中に終わらせる。」
少し間があってから、もう1通来た。
「ねえ、リュウ。変なこと聞いていい?」
(「変なこと」。)
(キョンが断ってから聞くのは、珍しい。)
「いいよ。」
「好きな曲って、どうやって好きになった?」
(予想外の質問だ。)
「どういう意味か。」
「なんか、すごく好きなものって、最初からそうだった気がする。でも、なんで好きになったか言えない感じ。それって変かな、って思って。」
(変じゃない。)
(全然変じゃない。)
(「なぜ好きかを説明できないもの」は、むしろ一番深いところにある。)
「変じゃない。説明できない方が本物のことが多い。」
「……そっか。」
「そっちは?」
「なんか、急にそう思って。NOIR EDGEの曲を聴いてたら。」
(止まった。)
(NOIR EDGE。)
(あのイヤホンの、曲だ。)
(キョンがアーティスト名を教えてくれたのは、今が初めてだ。)
(向こうから言った。)
(1年と少し、毎朝この音楽を聴いてきた。)
(差し出されたイヤホン。右耳に差す。音が来る。それだけだった。)
(名前を聞いたことは一度もなかった。聞けなかったというのが正確だ。)
(聞いてしまったら、何かが崩れる気がして。)
(名前のない音楽のまま、毎朝もらっていた。)
(その名前を、今夜、向こうから言った。)
(落ち着けアラフォー。)
(これは重要かもしれない。でも今夜は明日の前夜だ。引き止めるな。)
「……いつか聴いてみたい。」
「いつか。」
(その「いつか」がいつかは、まだわからない。)
(でも「いつか」は、ある。)
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もう1通来た。
「あと、3Aの山岸くんって人も明日来るみたい。声かけられたんだ、展示会行くって。」
(体の中で、何かが止まった。)
(静かに。)
「そうか。」
返信しながら、内心は全然静かじゃなかった。
(山岸が来る。)
(展示会に。)
(俺とキョンが行くのと同じ日に。)
(偶然じゃない。ミナミに聞いていた。「キョンがよく行く場所」を。)
(それがここに繋がったんだ。)
(落ち着けアラフォー。)
(これは俺が焦る話じゃない。)
(……いや、焦る話だ。正直に言う。焦っている。)
(山岸が何者かは、大体わかっている。3Aのやつだ。バスケ部で背が高い。)
(ミナミから「キョンがよく行く場所」を聞き出したんだろう。)
(そういうことができる人間が、明日——俺とキョンが行く場所に来る。)
(意図がある。偶然じゃない。だから余計、嫌なんだ。)
ガラケーを握ったまま、少し考えた。
(焦りと行動は別だ。)
(ミナミに言ったことだ。自分でも信じてる。)
(ただ——明日は、動くかもしれない。)
(計算しきれない最後の1手が、動くかもしれない。)
「じゃあ、明日。」
キョンから最後のメールが来た。
「うん。明日。」
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窓の外。
夏の夜の空気が、蒸し暑いままだった。
(俺はまだ言ってない。)
(でも明日、展示会の中で。)
(キョンが好きなものを前にして。)
(山岸が同じ場所にいて。)
(俺は——どうする。)
ガラケーを閉じた。
(NOIR EDGE。)
(キョンが今夜、自分からその名前を言った。)
(1年かけて、ずっと「今度」と言い続けてきた名前を。)
(今夜、メールの中で。)
(落ち着けアラフォー。)
(それだけのことだ。)
(それだけだが——それだけで十分だ、今夜は。)
明日が来る。
第30話。展示会前夜のメール。「NOIR EDGE」の名前が初めて向こうから出た夜。そして「山岸も来るみたい」——嬉しいと焦りが同時に来る夜でした。次回、8月14日。展示会当日。




