第29話 夏休みの学校。山岸がキョンに話しかけていた
8月が来た。
週に2〜3回、学校に来て書類をこなす。
昼前に切り上げて、図書室で勉強するかファミレスに移動するか。
(38歳のSEの体に染み付いた「午前中に集中して午後は流す」のリズムと同じだ。)
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ある日の朝。
図書室に向かおうとして、廊下で止まった。
キョンがいた。
美術室の前だった。
布のロールを腕に抱えて、ドアの前で何かを考えている。
(ミシンか。)
(服を作るのに学校の設備を使う場合がある。)
声をかけようとして、足が止まった。
(山岸がいる。)
廊下の少し先に、もう一人いた。
3Aの山岸だ。
背が高い。
バータ経由でミナミ経由で聞いた「積極的なタイプ」という情報と、今の姿が重なった。
山岸がキョンに話しかけていた。
(俺は動かなかった。)
(動けなかったわけじゃない。動かなかった。)
(もう少し、様子を見た。)
会話の内容は聞こえなかった。
廊下の向こうで、山岸が何か話している。
キョンは布のロールを抱えたまま、答えている。
笑ってはいない。かといって不快そうでもない。
「普通に話している」という感じだった。
(……ふつうに話している。)
(俺はここで何をやっているんだ。)
(38年生きた男が廊下で立ち止まって、壁際から様子を伺っている。)
(落ち着けアラフォー。これは偵察じゃない。状況を把握している。)
(同じだろうが。)
少しして、山岸が廊下を歩いていった。
キョンが美術室のドアを開けようとした。
俺は歩き出した。
「キョン。」
キョンが振り返った。
「あ。リュウ。生徒会?」
「ああ。そっちは。」
「ミシン借りたくて。美術室の先生に許可もらってた。」
「展示会の作品か。」
「……違う。夏の間に作りたいやつ。この前メールで言ったやつ。素材で迷ってたの。」
「決まったのか。素材。」
キョンが少し考えてから答えた。
「……着心地を先にした。」
「そうか。」
「シルエットは後から補正できるけど、着てる感が強い服は最初から嫌な感じがするから。」
(これは答えのある話だった。)
(キョンは自分の中で答えを出していた。)
「……正解な気がする。」
「わかんないけど。でもそっちに決めた。」
ドアを開けようとして、キョンが少し振り返った。
「リュウって、来るの毎日?」
「週2〜3日。」
「そっか。」
それだけ言って、美術室に入っていった。
(「そっか。」)
(それだけだ。)
(落ち着けアラフォー。「そっか」の1文字を1時間解析するな。)
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その日の帰りにフミからメールが来た。
「お前、夏どうしてる。」
「生徒会。勉強。ほぼそれだけ。」
「来週暇か。」
「昼から生徒会ある。午前は空いてる。」
「スタビ行こ。少し話したいことある。」
(フミが「少し話したいことある」と前置きをする。)
(これは珍しい。)
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翌週、スタビで会った。
フミはアイスコーヒーを飲みながら、しばらく何も言わなかった。
「模試を受けてきた。」
「この時期にか。」
「夏期の特別模試がある。受けておかないと後が詰まる。」
(フミらしい。)
「手応えはどうだった。」
「……法律科目は伸びしろがある。」
「夏に潰す。」
「それが話したかったことか。」
「それもある。」
フミがストローをいじった。
「山岸のこと。」
(やっぱり来た。)
「ミナミから聞いた。」
「俺は山岸本人から見てる。3Aだから。」
(直接だ。)
「どんなやつだ。」
「……悪いやつじゃない。」
フミが言う「悪いやつじゃない」は、評価が高い。
フミは人への評価が厳しい。
「それは困る。」
「何がだ。」
「悪いやつなら話が簡単になる。」
フミが目を細めた。
「お前、どうするつもりだ。」
「展示会に行く。8月14日。」
「それで。」
「……その場で考える。」
フミがストローを置いた。
「計算してないのか、珍しく。」
「計算はしてる。ただ、最後の1手は計算しきれない。」
フミが短く言った。
「……秋は、違う景色になる可能性がある。それだけだ。」
「わかってる。」
「わかってて動いてるなら、それでいい。」
アイスコーヒーが空になった。
フミが腰を上げた。
「バイト入ってるから先に出る。」
「ああ。」
「……お前がんばれよ、一応。」
(一応、って言うな。)
(でも、ありがとう。)
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帰りの電車。
窓の外を見ながら、考えた。
(山岸がキョンに話しかけていた。)
(廊下で、実際に。)
(「普通に話している」というのが、全部だ。)
(キョンが笑っていなかった。不快そうでもなかった。)
(それが何を意味するかは——わからない。)
(落ち着けアラフォー。)
(展示会まで、あと少し。)
(俺はまだ言ってない。)
(でも——展示会が近い。)
窓の外に、夏の夕暮れが流れていった。
第29話。夏休みの学校で、山岸がキョンに話しかけている場面を目撃するリュウ。「普通に話している」という事実が、全部だった。フミとのスタビ回は「悪いやつじゃない」の一言に全部詰まっています。「秋は違う景色になる可能性がある」——フミが感情ゼロの情報としてそれを届けてくる。次回、展示会前夜へ。




