第26話 図書室で数学を教えた。展示会の「一緒に行かないか」を言えなかった
体育祭が終わって、学校は試験モードに入った。
6月後半。
梅雨の真っ只中。窓の外では雨が続いている。
期末試験まで2週間を切った。
(前回の中間は余裕だった。)
(38年分の知識があればそうなる。)
(ただし今回は生徒会の仕事と重なっている。)
(会議が2本、書類が4枚、後輩の相談が1件。どれも断れない。)
38歳のタイムマネジメントスキルを高校の時間割に適用する局面が来た。
(月・水・金は放課後に勉強時間を確保する。)
(火・木は生徒会の仕事を片付ける。)
(完璧だ。崩れなければ。)
朝のSHRで先生が範囲表を配った。
見た瞬間に頭の中で優先順位が立った。
英語・現代文・数学Ⅱ——今週中に基礎を固める。
残りは来週の頭から2日ずつ積み上げる。
(社会人時代の締め切り管理と構造が同じだ。)
(高校生のくせに死んだ目でタスク整理してる。)
(でも有効なので続ける。)
---
月曜の放課後。
図書室に入ると、まだ空席があった。
窓際の4人席を確保して教科書を開く。
積分のテキストから始めた。
置換積分、部分積分、定積分の面積計算。
手を動かせば答えは出る。
(SEとして18年間、手を動かせば答えが出ることだけは知っている。)
(数学でもコードでも、基本は同じだ。)
20分ほどで、椅子を引く音がした。
「……ここ、いい?」
顔を上げた。
キョンだった。
参考書を2冊抱えている。
後ろにサナが立っていた。サナが俺に会釈した。
「いいよ。」
2人が向かいに座った。
(図書室で、キョンが斜め向かいに座っている。)
(これはなんでもない。普通の自習だ。)
(落ち着けアラフォー。落ち着け。ペンを持て。)
---
しばらく静かだった。
鉛筆の音。ページをめくる音。
窓の外で雨が降っている。
「……ねえ、リュウ。」
小声で、キョンが言った。
「何。」
「数学のここ、どうやって解くの。」
ノートを向けてきた。
積分の問題だった。
(ちょうど今やってたやつだ。)
(置換積分。t = sinxで置く。)
「t = sinxで置くと、dt = cosxdxになる。置き換えると——」
俺はキョンのノートの余白に式を書いた。
キョンがノートをのぞき込んでいる。
顔が、近い。
(近い。)
(落ち着けアラフォー。説明しろ。式を書け。)
「ここで積分して、tをsinxに戻す。これで答えが出る。」
「……あ。そういうことか。」
キョンが自分のノートに式を書き始めた。
指先が細い。
服を縫うからか、手の動かし方が慣れていた。
(関係ない。)
(集中しろ。)
「合ってる?」
「合ってる。」
「ありがとう。」
キョンが視線を自分のノートに戻した。
(横顔。)
(問題を解くときのキョンは、こういう顔をするのか。)
(真剣だ。眉が少し寄っている。)
(知らなかった。)
(俺はまだ言ってない。)
(こういうことを知るたびに、また一個積み上がる。)
(積分より確実に積み上がってる。)
---
少しして、サナが「リュウ、英語のここも聞いていい?」と言った。
「いいよ。」
「仮定法過去完了。If S had Vpp の後が毎回ごちゃごちゃになる。」
「主節は would have Vpp になる。意味は過去の事実と違う仮定——『もし〜だったなら、〜していただろう』の形だ。」
「あ、そっか。ありがとう!」
(声量が少し大きかった。)
(図書室なので周りが一瞬振り向いた。)
(でもサナのキャラはそういうものだ。)
そのとき、扉が開いた。
フミだった。
俺を見た。
次に、キョンを見た。
それから、何も言わずに窓際の端の席に座った。
参考書を開く。
そのまま集中した。
(フミがいる。)
(フミはいつでもどこでも勉強している。)
(バイトが週3〜4あって弁護士志望だ。时间の使い方が違う次元にある。)
5分ほど経って、フミが顔を上げないまま言った。
「静かにしろ。」
周りへの注意だった。
サナに向かって言ったわけではない。
でもサナが「すみませんでした」と小声で謝った。
(フミの存在感がそうさせた。)
(フミは何もしていない。ただいるだけで空気が引き締まる。)
(将来、法廷に立ったらどうなるんだ。)
---
1時間半ほど経った頃、サナが「電車の時間だ」と立ち上がった。
キョンも参考書を閉じた。
「ありがとう、また教えて。」
「いつでも。」
2人が出ていった。
図書室が少し静かになった。
フミが顔を上げた。
「お前、最近よく人に教えてるな。」
「教えると自分の復習にもなる。」
「それは知ってる。ただ——」
フミが少し間を置いた。
「キョンに教えるとき、微妙に説明が丁寧になる。」
(……。)
(気づかれてた。)
(フミ。お前は本当に怖い。)
「気のせいだ。」
「そうか。」
フミは信じていない。
完全に信じていない目をしている。
でも何も言わなかった。
参考書に視線を戻した。
(フミはいつもそうだ。)
(問い詰めない。ただ観察する。記憶する。)
(ここに貯めていったものが、どこかで出てくる。)
(怖い。でも、嫌いじゃない。)
---
図書室を出ると、雨が上がっていた。
傘を持ってきたが、畳んだままでよかった。
アスファルトが濡れていて、夕方の光に反射していた。
ホームで電車を待っていたら、後ろから声がした。
「リュウ。」
振り返った。
キョンだった。
サナはいない。一人で来ていた。
「一緒だ。」
「そうだな。」
電車に乗った。
いつものドア付近に並んだ。
夕方の西都線は混んでいる。
窓の外に濡れた街が流れていく。
「今日、教えてくれてありがとう。」
「大したことない。」
「そういう言い方よく言うけど、リュウって人に教えるの上手いと思う。」
(38年分の経験だ。)
(とは言えない。)
「そうか。」
「うん。……なんか、落ち着いて説明してくれるから。あわてない。」
(外から見るとそう見えるのか。)
(内心はアラフォーが大騒ぎしてるんだが。)
(外面だけ38年分の落ち着きがある。)
「……そう見えるなら良かった。」
「うん。」
しばらく、2人とも黙っていた。
電車が揺れた。
雨上がりの夕空が、窓の端に見えた。
「夏休み、何か予定ある?」
キョンが窓の外を見ながら言った。
「まだ決めてない。何かあるかもしれない。」
「そっか。」
「お前は?」
「服を作りたい。あと——」
キョンが少し止まった。
「展示会に行きたい。」
「展示会。」
「服の。去年も行こうとして行けなかったから。今年は行くって決めてる。」
「……どこの展示会だ。」
「東京の、代々木の方にある会場。インディーズのデザイナーが集まるやつ。」
「いつ。」
「8月の半ば。」
(8月の半ば。夏休み中だ。)
(俺の予定はまだ空いている。)
(言うか。)
(「一緒に行かないか」——その一言を。)
(言えるか。)
(言ってもいいはずだ。友人として展示会に行く話なら——)
(落ち着けアラフォー。)
(焦るな。今日じゃない。)
(今日は「一緒に行こうか」を言う準備ができていない。)
(ちゃんと言うなら、もっとちゃんとした形で言う。)
「……そうか。」
俺は言わなかった。
「楽しそうだな。」
「うん。去年から行きたかったから。」
キョンが少し笑った。
(その顔だ。)
(「楽しみにしている」顔をするときのキョンは、少し子どもみたいになる。)
(38歳が見ても、子どもみたいだと思う。)
(——可愛い。)
(落ち着けアラフォー。可愛いと思ったことは胸の中に閉まっておけ。)
---
清峰駅が近づいてきた。
電車が速度を落とす。
「じゃあね。」
「ああ。お疲れ。」
ドアが開いた。
キョンが降りた。
ホームを歩いていく。
改札の方に曲がって、見えなくなった。
ドアが閉まった。
(8月の半ば。代々木。)
(俺はその一言を言わなかった。)
(「一緒に行こうか」——言えた。でも言わなかった。)
(なぜ言わなかったのか。)
(準備ができていなかった、というのは半分本当だ。)
(もう半分は——あの話を、こんな立ったままの電車の中で言いたくなかった。)
(ちゃんとした場所で、ちゃんとした言い方で言いたかった。)
(それが正直なところだ。)
(「逃げた」じゃない。「タイミングを選んだ」んだ。)
(——そういうことにしておく。)
(俺はまだ言ってない。)
(展示会の話も、その先の話も、全部まだ言ってない。)
(でも——夏休みがある。)
小手川駅まで、あと20分。
窓に映る夕空は、橙と紺の境目にいた。
(夏が来る。)
(8月まで、まだ時間はある。)
図書室回でした。積分を教えるリュウと、ノートをのぞき込むキョン。そこに「説明が丁寧になる」と言い切るフミが現れる——フミは最初から全部見えている。帰りの電車で出た「展示会に行きたい」という一言。リュウは「一緒に行こうか」を言えなかった。逃げたんじゃない、タイミングを選んだんだ、と自分に言い聞かせるアラフォー。次回、夏の話へ。




