第15話 フミの結果が出た。バータが少し動いた
3月になった。
(3月だ。)
(2006年3月。)
(この時代に戻ってきて、最初の冬が終わろうとしている。)
朝のランニングで気づいた。
空気の重さが少し違う。
先月まで吐く息が白かった。
今日は白くない。
(春が来る。)
(落ち着けアラフォー。)
(春が来たからといって何も変わらない。)
(変わらないが——3月は何かが変わる月だ。)
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フミの奨学金の採否が出た。
採用だった。
「そうか。」
フミは昼休みに、それだけ言った。
弁当箱を開けながら。
卵焼きを箸で取りながら。
「よかったな。」
「まあ。」
「添削、役に立ったか。」
「……立った。」
間があった。
「論点を先に整理するようになった。それだけで構成が変わった。」
「お前が変えたんだ。直したのは俺じゃない。」
「……そうか。」
フミが照れるとき、「そうか」の前に一瞬の間がある。いつもより0.3秒長い。
(38歳の観察眼だ。)
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放課後、生徒会室で書類を整理していると、バータが来た。
「連絡事項はないが、来た。」
「来たなら何かしろ。」
「まあ。」
バータが椅子に座った。
足を伸ばして、天井を見た。
「外部受験、やっぱりやめようかと思ってる。」
(ん。)
「どうした急に。」
「急じゃない。ずっと考えてた。」
「理由を聞かせてくれ。」
バータが少し間を置いた。
「……附属に残れば、大学から動ける。外部受験したら浪人するかもしれない。浪人したら1年遅れる。起業したいなら、早く動いたほうがいいんじゃないかと思って。」
(なるほど。)
(バータの論理だ。遠回りに見えて、実は効率を考えている。)
「附属に残る場合の進学先は。」
「経営か商学。」
「悪くない。」
「俺バカだから、受験科目が増えるよりはそっちのほうがいいかなって。」
「受験の難度だけで決める必要はない。ただ——」
「ただ?」
「お前が本当に起業したいなら、どこの大学に行くかより、大学時代に何をするかのほうが大事だ。附属でも外部でも、動こうとすれば動ける。」
バータが天井を見たまま、少し黙った。
「……そっか。」
「俺の知ってる起業した人間は、学歴で動き出したやつじゃなかった。やりたいことが先にあって、そのために動いたやつだった。」
(これは38歳の実感だ。)
(本当のことだ。)
「リュウって、なんか妙に知ってるよな。大人みたいなことを。」
(大人だからな。)
(言えないが。)
「見聞きした範囲で、だ。」
「まあ。でも、信用できる話だと思う。」
(バータ。)
(お前は素直で、だからこそ誰かに騙されやすい。)
(この先、変なビジネスに引っかかるな。)
「バータ。」
「うん。」
「起業するとき、変な話を持ってくるやつには気をつけろ。」
「変な話?」
「儲かる話を持ってくるやつ。特に大学時代。」
「……なんで急に。」
「なんとなく。俺バカだからよくわかんないけど。」
バータが一瞬止まった。
それから、小さく笑った。
「……お前がそれ言うの、おかしい。」
「そうか。」
(おかしいが、伝わった。)
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その夜。
机に向かって、自分の「やり直しリスト」を見た。
8番:キョンに、ちゃんと言う準備をする
(まだ消えていない。)
(進捗がないわけでもない。)
(ただ——3年になるまでは、今じゃないと決めていた。)
窓を開けた。
夜風が入ってきた。
3月の夜風は、まだ少し冷たい。
(2005年の9月から始まって、もう半年が経った。)
(文化祭があって、生徒会室があって、電車の40分があって、外見が変わって、フミに疑惑をかけられて、バレンタインがあって、会長になって。)
(いろんなことがあった。)
(でも——「言う」はまだだ。)
(落ち着けアラフォー。)
(焦らなくていい。)
(俺はちゃんとここにいる。)
(キョンの隣に、ちゃんといる。)
風が入ってきて、机の紙が少し揺れた。
(春が来る。)
(3年が始まる。)
(それからが、本番だ。)
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翌朝の電車。
清峰でキョンが乗ってきた。
いつも通りのドア付近に立った。
いつも通りイヤホンを外して、差し出した。
受け取った。
「春っぽくなったな。」
口から出た。
何かを言おうとして出てきたわけじゃない。
ただ、そう思ったから出た。
キョンが少し俺を見た。
「……そうかな。言われると確かに、空気が違う気がする。」
「空気が変わった。今朝のランニングで気づいた。」
「ランニングしてるの、まだ続いてるんだ。」
「続いてる。」
「習慣になったね。」
「なった。」
キョンが窓の外を見た。
朝の住宅街が流れていく。
「私もなんか、最近そういうの作りたいと思ってた。」
「何を。」
「毎朝やること。ルーティンみたいな。でも続かないんだよな、いつも。」
「何かやりたいことを決めてやるより、やめることを決めないほうが続く。」
「やめることを決めない?」
「続けようと思うと重くなる。やめなければ続く。その違いだ。」
キョンが少し首をかしげた。
「……なんかそれ、考え方が変わった感じがする。」
「どういう意味で。」
「うまく言えないけど。なんか、気楽そう。」
(気楽。)
(38歳が積み上げてきた結論が「気楽そう」と評されるのは、少し可笑しい気もするが、悪くない。)
「そういう話を、誰かから聞いた。」
「誰かって?」
「昔の話だ。」
キョンが「ふうん」と言った。
(ふうんの種類のうち、今のは「それ以上は聞かない」という「ふうん」だった。)
(キョンはいつも、聞かなくていい場所で止まる。)
(それが助かることもある。今日のように。)
清峰駅が近づいてきた。
電車が速度を落とした。
「春休み、どうするの?」
キョンが聞いた。
「まだ決まってない。生徒会の引き継ぎが少しある。あとは勉強。」
「そっか。」
「キョンは。」
「服作ろうと思ってる。春休み中に一枚、ちゃんと仕上げたくて。」
「そうか。どういうのを作るんだ。」
「シャツ。でも、普通のシャツじゃなくて。」
「どういう形で。」
「……着る人の体型に寄り添わないやつ。着た瞬間に形が変わるやつじゃなくて、着ても自分のままでいられるやつ。」
(キョン。)
(お前はまた、一番大事なことを服の話として言う。)
(着ても自分のままでいられる服。)
(それはお前が作りたいものだ。)
(お前が欲しいものだ。)
「できたら見せてくれ。」
「……見せていいの?」
「見たい。」
少しの間があった。
「……じゃあ、できたら。」
扉が開いた。
キョンが降りた。
改札に向かう背中を、見た。
(俺はまだ言ってない。)
(でも——春休みが終わったら3年が始まる。)
(3年が始まったら、本番だ。)
扉が閉まった。
窓の外に、3月の空が広がった。
第15話です。何かが大きく動くわけじゃない、3月の話です。フミの奨学金採用が決まって、バータが進路を少し方向転換して、リュウが8番のメモを消さないでいる。キョンが「着ても自分のままでいられる服を作りたい」と言いました。この一言は、ずっとあとになって効いてきます。




