第14話 バレンタイン、誰も思い通りにはいかなかった日
2月14日。
(バレンタインデーだ。)
(38歳の俺は20年ぶりにこの日を高校で迎えている。)
(落ち着けアラフォー。)
朝から空気が違った。
女子が廊下をいつもより少し早足で歩いている。
鞄がいつもより膨らんでいる。
「ねえ渡した?」「まだ」「いつ渡すの」という声がそこらじゅうから聞こえる。
(2005〜2006年の高校。義理チョコ文化の全盛期だ。)
(今はまだ、チョコを配ることがコミュニケーションの一形態として機能している。)
(38歳にはこの空気が懐かしいような、遠いような、妙な感じがする。)
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1時間目が始まる前。
南さんが走ってきた。
「柳くん! ちょっといい!!」
「何。」
「今日の放課後、絶対どこかに行かないでいてほしい!」
「どこにも行くつもりはないが。」
「じゃあ待ってて!!」
走って行った。
(……何をする気だ。)
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昼休み。
ユースケが俺の机に来た。
目が少し赤い。
「ユースケ。」
「……なんでもない。」
「目が赤い。」
「なんでもない。」
「泣いたか。」
「泣いてない。」
「そうか。」
ユースケがパンを机に置いた。
食べない。
「……好きな子にチョコ、もらえなかった。」
「誰かにあげたかったのか。」
「逆。もらいたかった。失礼にも程があるよな。」
(失礼という言い方が独特だ。)
「もらえなかっただけで失礼じゃない。相手はお前に義務はない。」
「そうだけど……なんか、チョコ持って歩いてる子がいっぱいいるじゃないか。どこかに行くんだろうなって思って。で、どこにも来なかったわけで。」
「わかった。お前が今落ち込んでいる理由は。」
「……慰めてくれよ。」
「来年のホワイトデーに何か返せばいい。今年じゃなくてもいい。」
「来年はもう高校生じゃない!」
「関係ない。渡したい相手がいれば渡せる。時間をかけても伝わる気持ちはある。」
ユースケが少し黙った。
「……リュウってなんか、妙にそういうこと知ってるよな。」
「そういう話をよく見聞きした。」
「でしょ? じゃあ来年でもいいか。」
「いい。急がなくてもいいことは多い。」
ユースケがパンをかじった。
少しだけ顔が戻った。
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午後の授業が終わった。
廊下で南さんに捕まった。
「チョコ、渡せなかった。」
「誰に渡すつもりだったんだ。」
「坂田くん。3年A組の。」
「知らない人だ。」
「知らなくていいんだけど!! 渡せなかった話だから!!」
「そうか。どういう経緯で。」
「渡そうと思って廊下で待ってたら、他の子が先に渡してた。でも坂田くんがこっちに来て、『南さんも?』って聞いてきて。」
「『南さんも』——義理か、という意味か。」
「そう思って、とっさに『義理です』って言った。」
「……本命だったのでは。」
「本命だったんだけど!! 『義理です』って言ったら坂田くんが笑って『そっか、ありがとう』って言って受け取ってくれた!!」
「渡せたじゃないか。」
「渡せたけど義理になった!!」
「でも渡せた。結果論だが、渡せた。」
「そうだけど! でも義理!!」
「ホワイトデーに何か返ってきたら、その流れで話せばいい。」
「……返ってくるかな。」
「義理チョコをもらった男子はホワイトデーに何かしら返す。2005年のこの時代はまだその文化がある。」
南さんが少し考えた。
「……そっか。ホワイトデー。3月14日か。」
「それまでに作戦を立てればいい。」
「作戦!! 柳くん、一緒に考えてくれる?!」
「……まあ、相談には乗る。」
「やった! ありがとう!!」
南さんが走って行った。
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夕方、帰り支度をしていたとき。
早川さんに呼び止められた。
「今日、南さんと話してたでしょ。」
「話した。」
「あの子の恋愛、手伝ってやって。」
「そのつもりだ。」
早川さんが少し間を置いた。
「いや待って。なんか普通に答えたな。」
「南さんには正直に作戦を立てたほうがいいと伝える予定だ。」
「作戦。なんか、戦略家みたいだね。」
「経験値の問題だ。いろいろ見てきた。」
「……そっか。」
早川さんが歩き始めた。
「リサが言ってた。柳くんって前と違う、って。橘さんも言ってたよ。なんか変わった、って。」
(橘さんは文化祭の翌日に言っていた。最初に気づいたのは橘さんだ。)
「じゃあ、南さんのこと頼む」と言って曲がり角に消えた。
(俺はまだ言ってない。)
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帰りの電車。
今日はキョンと同じ車両になれた。
いつも通り右のイヤホンを渡された。
(キョンは今日、何かをしたのだろうか。)
(しなかったのだろうか。)
(聞けない。)
音楽が流れた。
NOIR EDGEの、ゆっくりした曲だった。
窓の外を見た。
2月の夕暮れが流れていった。
(俺はまだ言ってない。)
(でも今日は——まあ、悪くなかった。)
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家に帰ってから、ガラケーを確認した。
メールが1通届いていた。
キョンからだった。
「受け取ってくれる?」
(——。)
(落ち着けアラフォー。)
(「受け取ってくれる?」。)
(何を、だ。何を受け取るんだ。)
(チョコか。それとも別の何かか。)
(今日、バレンタインデーに。)
(俺に、このメールを送った。)
5分考えた。
「何を。」
と返信した。
返信は来なかった。
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翌朝。
眠れたのかどうか、よくわからないまま起きた。
(返信が来なかった。)
(「何を。」に対して、何も来なかった。)
(俺のせいか。)
(「受け取る」とだけ答えていれば良かったのか。)
(「何を。」と聞いたのが、余計だったのか。)
(落ち着けアラフォー。)
(38年生きて、こんなことで眠れなくなるな。)
(……なってる。なってるから今こうなってる。)
ランニングに出た。
走りながら考えた。
走り終わっても答えは出なかった。
(何を送るつもりだったのか、キョンに聞けばいい。)
(でも聞いたら、聞いてしまったら——)
(「何でもない」と言われたとき、どうする。)
(「何でもない」の方が、「何を」のまま終わるより怖い。)
(落ち着けアラフォー。)
(走った後に哲学を始めるな。)
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朝の電車。
清峰でキョンが乗ってきた。
いつも通りの位置に立った。
目が合った。
0.5秒くらい、止まった。
キョンが先に前を向いた。
右のイヤホンは、今日は差し出されなかった。
(——。)
(落ち着けアラフォー。)
(別に、毎日渡されるわけじゃない。)
(渡されない日もある。)
(でも今日は——)
(落ち着けアラフォー。)
電車が動いた。
2人とも、窓の外を見ていた。
何も言わなかった。
何も言えなかった。
キョンが清峰で降りた。
1回も振り返らなかった。
(いつもは、1回だけ振り返る。)
ドアが閉まった。
電車が動き始めた。
(——。)
(落ち着けアラフォー。)
(落ち着けアラフォー。)
(38歳が、「1回も振り返らなかった」に意味を見出すな。)
(見出してる。思い切り見出してる。)
(「受け取ってくれる?」の返信が来なかったことを。)
(俺が「何を。」と聞いたことを。)
(キョンはどう思ったんだ。)
(わからない。)
(全部わからない。)
(俺はまだ言ってない。)
(その前に、一個しくじった気がしてならない。)
窓の外に、2月の灰色の空が流れていった。
「失礼にも程がある」と「義理です」が今回の2大名言。そして帰宅後のメール「受け取ってくれる?」。5分考えて「何を。」と返した。返信は来なかった。翌朝、右のイヤホンは差し出されなかった。1回も振り返らなかった。何かをしくじった気がするリュウ——その感覚が正しいかどうかは、1年後のep36で答えが出ます。
次回——フミの奨学金結果が出る。「着ても自分のままでいられる服」の言葉が来ます。




