↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/80

第9話 断る理由ができた

 医師から「生活習慣を見直してください」と言われてから、三日が経った。


 たかしは酒を減らそうと思っていた。


 本当にそう思っていた。


 朝起きる。


 水を飲む。


 鏡を見る。


 そして、自分に言い聞かせる。


「今日から変えよう」


 それだけなら簡単だった。


 問題は夜だった。


     *


 日曜日。


 夕方。


 スマートフォンが鳴った。


 まさとからだった。


『今日、いつもの店な』


 たかしは画面を見た。


 以前なら、何も考えずに、


『了解』


 と返していた。


 しかし今日は違った。


 病院でもらった紙が、テーブルの上に置いてある。


 そこには血糖値や生活習慣について書かれていた。


 医師にも言われた。


 酒を減らす。


 食事を見直す。


 運動する。


 体重を落とす。


 たかしはスマートフォンを握った。


『ごめん、今日は……』


 そこまで入力した。


 指が止まった。


 その先が打てない。


 ――糖尿病だから。


 そう言えばいい。


 簡単なことだった。


 なのに。


 送信できなかった。


     *


 数分後。


 まさとから、


『どうした?』


 と来た。


 たかしは長い時間、画面を見ていた。


 そして、


『いや、大丈夫』


 と返した。


『じゃあ来るやろ?』


『うん』


 送信。


 たかしはスマートフォンを机に置いた。


「……何で断れないんやろ」


 誰も怒っていない。


 誰も脅していない。


 誰も強制していない。


 ただ、


「飲もう」


 と言われているだけ。


 それなのに。


 たかしは断れなかった。


     *


 店に着く。


「おう、たかし!」


「お疲れ」


「今日は飲もうぜ」


「うん」


 ビールが来る。


 たかしはグラスを持った。


 一瞬だけ、迷った。


「乾杯!」


「……乾杯」


 口をつける。


 冷たい。


 美味しい。


 そして、怖かった。


 医師の言葉が頭をよぎる。


 ――このままだと治療が必要になります。


 たかしはグラスを置いた。


「俺、今日は一杯だけにするわ」


「なんで?」


「ちょっと身体がな」


 まさとは笑った。


「大丈夫やって」


「でも……」


「一杯くらい」


「……うん」


 二杯目。


 三杯目。


 気がつけば、いつも通りだった。


     *


 まさとが仕事の話をしていた。


「最近、店に若い客増えてな」


「へえ」


「SNSの効果やな」


「すごいな」


「たかしもSNSやったら?」


「俺はいいわ」


「何で?」


「面倒やから」


「そういうところやぞ」


「……」


「もっと努力せな」


 まただった。


 努力。


 気合。


 資格。


 仕事。


 たかしは黙って聞いた。


 昔なら素直に、


「そうやな」


 と言えた。


 今日は違った。


 胸の奥で、小さな苛立ちが生まれていた。


「……俺だって頑張ってるよ」


 思わず口から出た。


「ん?」


「いや……何でもない」


「何か言った?」


「何も言ってない」


 たかしは笑った。


     *


 会計になった。


 まさとは財布を出さない。


 たかしも何も言わない。


 カードを出す。


 決済。


「ありがとう」


「うん」


「たかしってホンマ優しいな」


 その言葉。


 昔なら嬉しかった。


 今日は少し苦しかった。


「……そうかな」


「そうやって」


 まさとは笑った。


     *


 帰宅した。


 時計は午前一時を過ぎていた。


 冷蔵庫を開ける。


 何もない。


 水を飲む。


 そして鏡を見る。


「……また飲んだ」


 たかしは腹を触った。


 明らかに以前より大きくなっている。


 ズボンもきつい。


 身体が重い。


 それでも眠かった。


 ベッドへ入る。


     *


 翌朝。


 目覚ましが鳴る。


 止める。


 身体が動かない。


 もう一度鳴る。


 止める。


 時計を見る。


 出勤時間を過ぎている。


「……まずい」


 慌てて起き上がる。


 会社へ電話する。


「すみません……体調が悪くて……」


 嘘ではない。


 本当に体調が悪かった。


 ただ、その原因が前日の酒だということを、たかしは言わなかった。


     *


 会社では上司から注意された。


「たかし、また遅刻だぞ」


「すみません」


「契約社員になったばかりだろ」


「……はい」


「これ以上続くと更新できなくなる」


「分かっています」


「本当に分かってるのか?」


「……はい」


 席へ戻る。


 たかしはパソコンを開いた。


 手が震えていた。


     *


 昼休み。


 スマートフォンを見る。


 ひろしからメッセージ。


『今日飲もうぜ』


 たかしは目を閉じた。


 今日は月曜日。


 ひろしは火曜日が休み。


 だから今日飲む。


 いつものこと。


 断ればいい。


 たかしは文章を入力した。


『今日は無理』


 そこで止まった。


 削除。


『ごめん、今日は体調が……』


 削除。


『今日は仕事が……』


 削除。


 結局、


『分かった』


 と送った。


 返信はすぐだった。


『さすが!』


 その言葉を見て、たかしはスマートフォンを伏せた。


     *


 夜。


 ひろしと飲む。


「たかし、今日ちょっと暗くない?」


「そう?」


「仕事?」


「まあな」


「正社員辞めたから?」


「……」


「別に契約でもええやん」


「そうやけど」


「資格取れば?」


「……」


「お前、昔から優しいけど、努力が足りんよな」


 まただった。


 たかしはグラスを握った。


 強く握りすぎて、指が白くなった。


「俺だって……」


「ん?」


「何でもない」


「言いたいことあるなら言えよ」


「いや」


 たかしは笑った。


「何でもない」


     *


 ひろしは楽しそうに酒を飲んでいる。


 たかしは、その姿を見ていた。


 そして思った。


 ――俺は、何でこの人のために金を払っているんだろう。


 その疑問が、初めてはっきりと頭に浮かんだ。


 しかし。


 次の瞬間。


「たかし、今日キャバクラ行こうぜ」


 そう言われた。


 たかしは一瞬だけ迷った。


「今日はやめとこう」


 そう言えばいい。


 喉まで言葉が出た。


 けれど。


「……分かった」


 出てきたのは、いつもの言葉だった。


     *


 キャバクラ。


 酒。


 女の子。


 笑い声。


 ひろしは楽しそうだった。


 たかしはあまり話さなかった。


 隣の女性が、


「今日はどうしたんですか?」


 と聞く。


「ちょっと疲れてて」


「お仕事大変なんですね」


「まあ……」


「彼女さんとかいるんですか?」


「いないです」


「えー、意外」


 たかしは苦笑した。


「そうですか?」


「優しそうなのに」


 その言葉を聞いて、たかしは少しだけ笑った。


 ――優しい。


 また、その言葉だった。


 自分が一番欲しかった言葉。


 でも。


 今は、その言葉を聞くと苦しくなる。


     *


 会計。


 当然のように、たかしが払った。


 店を出る。


 ひろしが言った。


「ありがとうな」


「うん」


「今度女紹介するわ」


 たかしは足を止めた。


「……ほんま?」


「ほんまほんま」


「どんな子?」


「いい子探しとくって」


 たかしは笑った。


「ありがとう」


 その瞬間だけ。


 たかしは、まだ未来があるような気がした。


 結婚できる。


 家庭を持てる。


 子供もできる。


 いつか、普通の人生を送れる。


 その希望を捨てたくなかった。


     *


 火曜日。


 なおと。


 水曜日。


 ながと。


 木曜日。


 りょうた。


 また飲む。


 また払う。


 また説教される。


 またパチンコへ行く。


 またキャバクラへ行く。


 そして五人全員が言う。


「女紹介するから」


 たかしは、その言葉を信じ続けた。


     *


 金曜日。


 たかしは仕事から帰ると、そのままベッドに倒れ込んだ。


 身体が重い。


 足が痛い。


 喉が渇く。


 何度も水を飲む。


 トイレも近い。


 疲れているのに眠れない。


 スマートフォンを見る。


 五人から連絡はない。


 土曜日もない。


 日曜日までない。


 たかしは一人だった。


     *


 土曜日の昼。


 病院から電話が来た。


「先日の検査結果についてですが、もう一度受診してください」


「……はい」


「血糖値の件で、医師から説明があります」


「分かりました」


 電話を切る。


 たかしはしばらく黙っていた。


 そして、冷蔵庫を開けた。


 ビールが一本ある。


 手に取る。


 しばらく見つめる。


 飲むか。


 やめるか。


 迷った。


 そして。


 プシュッ。


 缶を開けた。


 一口飲む。


「……うまい」


 その瞬間。


 たかしは、自分が怖くなった。


 身体を壊すと分かっている。


 仕事も失いかけている。


 借金もある。


 それでも飲んでいる。


 なぜなのか。


 たかしには分からなかった。


     *


 夜。


 たかしは一人で考えた。


 自分は酒が好きなのか。


 違う。


 パチンコが好きなのか。


 違う。


 キャバクラが好きなのか。


 違う。


 友達といるのが好きなのか。


 それは、きっと好きだった。


 でも。


 本当は。


 ――嫌われたくない。


 ただ、それだけなのかもしれない。


 誘いを断ったら。


 嫌われる。


 付き合いが悪いと思われる。


 友達じゃなくなる。


 女の子を紹介してもらえなくなる。


 一人になる。


 その恐怖があった。


 たかしは膝を抱えた。


「俺……何を怖がってるんやろ」


 答えは出なかった。


     *


 日曜日の夜。


 まさとから電話が来た。


『たかし、今日どう?』


 たかしはスマートフォンを見た。


 今週も始まる。


 日曜日。


 月曜日。


 火曜日。


 水曜日。


 木曜日。


 また五日間。


 たかしは目を閉じた。


「……今日は断ろう」


 初めて、そう決めた。


 電話に出る。


「もしもし」


『たかし、今日飲もうぜ』


「……ごめん」


 喉が震えた。


「今日は、ちょっと……」


『何?』


「体調が悪くて」


『大丈夫やって』


「いや……」


『一杯だけやぞ』


「……」


『付き合ってくれよ』


 沈黙。


 たかしは目を閉じた。


 そして。


「……分かった」


 電話を切った。


 部屋の中が静かになる。


 たかしは両手で顔を覆った。


 泣きそうになった。


 断れなかった。


 たった一度。


 たった一度だけ。


 自分の身体を優先したかった。


 それすらできなかった。


 たかしは小さく呟いた。


「俺って……本当に優しいんかな」


 答える人は、誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。