第9話 断る理由ができた
医師から「生活習慣を見直してください」と言われてから、三日が経った。
たかしは酒を減らそうと思っていた。
本当にそう思っていた。
朝起きる。
水を飲む。
鏡を見る。
そして、自分に言い聞かせる。
「今日から変えよう」
それだけなら簡単だった。
問題は夜だった。
*
日曜日。
夕方。
スマートフォンが鳴った。
まさとからだった。
『今日、いつもの店な』
たかしは画面を見た。
以前なら、何も考えずに、
『了解』
と返していた。
しかし今日は違った。
病院でもらった紙が、テーブルの上に置いてある。
そこには血糖値や生活習慣について書かれていた。
医師にも言われた。
酒を減らす。
食事を見直す。
運動する。
体重を落とす。
たかしはスマートフォンを握った。
『ごめん、今日は……』
そこまで入力した。
指が止まった。
その先が打てない。
――糖尿病だから。
そう言えばいい。
簡単なことだった。
なのに。
送信できなかった。
*
数分後。
まさとから、
『どうした?』
と来た。
たかしは長い時間、画面を見ていた。
そして、
『いや、大丈夫』
と返した。
『じゃあ来るやろ?』
『うん』
送信。
たかしはスマートフォンを机に置いた。
「……何で断れないんやろ」
誰も怒っていない。
誰も脅していない。
誰も強制していない。
ただ、
「飲もう」
と言われているだけ。
それなのに。
たかしは断れなかった。
*
店に着く。
「おう、たかし!」
「お疲れ」
「今日は飲もうぜ」
「うん」
ビールが来る。
たかしはグラスを持った。
一瞬だけ、迷った。
「乾杯!」
「……乾杯」
口をつける。
冷たい。
美味しい。
そして、怖かった。
医師の言葉が頭をよぎる。
――このままだと治療が必要になります。
たかしはグラスを置いた。
「俺、今日は一杯だけにするわ」
「なんで?」
「ちょっと身体がな」
まさとは笑った。
「大丈夫やって」
「でも……」
「一杯くらい」
「……うん」
二杯目。
三杯目。
気がつけば、いつも通りだった。
*
まさとが仕事の話をしていた。
「最近、店に若い客増えてな」
「へえ」
「SNSの効果やな」
「すごいな」
「たかしもSNSやったら?」
「俺はいいわ」
「何で?」
「面倒やから」
「そういうところやぞ」
「……」
「もっと努力せな」
まただった。
努力。
気合。
資格。
仕事。
たかしは黙って聞いた。
昔なら素直に、
「そうやな」
と言えた。
今日は違った。
胸の奥で、小さな苛立ちが生まれていた。
「……俺だって頑張ってるよ」
思わず口から出た。
「ん?」
「いや……何でもない」
「何か言った?」
「何も言ってない」
たかしは笑った。
*
会計になった。
まさとは財布を出さない。
たかしも何も言わない。
カードを出す。
決済。
「ありがとう」
「うん」
「たかしってホンマ優しいな」
その言葉。
昔なら嬉しかった。
今日は少し苦しかった。
「……そうかな」
「そうやって」
まさとは笑った。
*
帰宅した。
時計は午前一時を過ぎていた。
冷蔵庫を開ける。
何もない。
水を飲む。
そして鏡を見る。
「……また飲んだ」
たかしは腹を触った。
明らかに以前より大きくなっている。
ズボンもきつい。
身体が重い。
それでも眠かった。
ベッドへ入る。
*
翌朝。
目覚ましが鳴る。
止める。
身体が動かない。
もう一度鳴る。
止める。
時計を見る。
出勤時間を過ぎている。
「……まずい」
慌てて起き上がる。
会社へ電話する。
「すみません……体調が悪くて……」
嘘ではない。
本当に体調が悪かった。
ただ、その原因が前日の酒だということを、たかしは言わなかった。
*
会社では上司から注意された。
「たかし、また遅刻だぞ」
「すみません」
「契約社員になったばかりだろ」
「……はい」
「これ以上続くと更新できなくなる」
「分かっています」
「本当に分かってるのか?」
「……はい」
席へ戻る。
たかしはパソコンを開いた。
手が震えていた。
*
昼休み。
スマートフォンを見る。
ひろしからメッセージ。
『今日飲もうぜ』
たかしは目を閉じた。
今日は月曜日。
ひろしは火曜日が休み。
だから今日飲む。
いつものこと。
断ればいい。
たかしは文章を入力した。
『今日は無理』
そこで止まった。
削除。
『ごめん、今日は体調が……』
削除。
『今日は仕事が……』
削除。
結局、
『分かった』
と送った。
返信はすぐだった。
『さすが!』
その言葉を見て、たかしはスマートフォンを伏せた。
*
夜。
ひろしと飲む。
「たかし、今日ちょっと暗くない?」
「そう?」
「仕事?」
「まあな」
「正社員辞めたから?」
「……」
「別に契約でもええやん」
「そうやけど」
「資格取れば?」
「……」
「お前、昔から優しいけど、努力が足りんよな」
まただった。
たかしはグラスを握った。
強く握りすぎて、指が白くなった。
「俺だって……」
「ん?」
「何でもない」
「言いたいことあるなら言えよ」
「いや」
たかしは笑った。
「何でもない」
*
ひろしは楽しそうに酒を飲んでいる。
たかしは、その姿を見ていた。
そして思った。
――俺は、何でこの人のために金を払っているんだろう。
その疑問が、初めてはっきりと頭に浮かんだ。
しかし。
次の瞬間。
「たかし、今日キャバクラ行こうぜ」
そう言われた。
たかしは一瞬だけ迷った。
「今日はやめとこう」
そう言えばいい。
喉まで言葉が出た。
けれど。
「……分かった」
出てきたのは、いつもの言葉だった。
*
キャバクラ。
酒。
女の子。
笑い声。
ひろしは楽しそうだった。
たかしはあまり話さなかった。
隣の女性が、
「今日はどうしたんですか?」
と聞く。
「ちょっと疲れてて」
「お仕事大変なんですね」
「まあ……」
「彼女さんとかいるんですか?」
「いないです」
「えー、意外」
たかしは苦笑した。
「そうですか?」
「優しそうなのに」
その言葉を聞いて、たかしは少しだけ笑った。
――優しい。
また、その言葉だった。
自分が一番欲しかった言葉。
でも。
今は、その言葉を聞くと苦しくなる。
*
会計。
当然のように、たかしが払った。
店を出る。
ひろしが言った。
「ありがとうな」
「うん」
「今度女紹介するわ」
たかしは足を止めた。
「……ほんま?」
「ほんまほんま」
「どんな子?」
「いい子探しとくって」
たかしは笑った。
「ありがとう」
その瞬間だけ。
たかしは、まだ未来があるような気がした。
結婚できる。
家庭を持てる。
子供もできる。
いつか、普通の人生を送れる。
その希望を捨てたくなかった。
*
火曜日。
なおと。
水曜日。
ながと。
木曜日。
りょうた。
また飲む。
また払う。
また説教される。
またパチンコへ行く。
またキャバクラへ行く。
そして五人全員が言う。
「女紹介するから」
たかしは、その言葉を信じ続けた。
*
金曜日。
たかしは仕事から帰ると、そのままベッドに倒れ込んだ。
身体が重い。
足が痛い。
喉が渇く。
何度も水を飲む。
トイレも近い。
疲れているのに眠れない。
スマートフォンを見る。
五人から連絡はない。
土曜日もない。
日曜日までない。
たかしは一人だった。
*
土曜日の昼。
病院から電話が来た。
「先日の検査結果についてですが、もう一度受診してください」
「……はい」
「血糖値の件で、医師から説明があります」
「分かりました」
電話を切る。
たかしはしばらく黙っていた。
そして、冷蔵庫を開けた。
ビールが一本ある。
手に取る。
しばらく見つめる。
飲むか。
やめるか。
迷った。
そして。
プシュッ。
缶を開けた。
一口飲む。
「……うまい」
その瞬間。
たかしは、自分が怖くなった。
身体を壊すと分かっている。
仕事も失いかけている。
借金もある。
それでも飲んでいる。
なぜなのか。
たかしには分からなかった。
*
夜。
たかしは一人で考えた。
自分は酒が好きなのか。
違う。
パチンコが好きなのか。
違う。
キャバクラが好きなのか。
違う。
友達といるのが好きなのか。
それは、きっと好きだった。
でも。
本当は。
――嫌われたくない。
ただ、それだけなのかもしれない。
誘いを断ったら。
嫌われる。
付き合いが悪いと思われる。
友達じゃなくなる。
女の子を紹介してもらえなくなる。
一人になる。
その恐怖があった。
たかしは膝を抱えた。
「俺……何を怖がってるんやろ」
答えは出なかった。
*
日曜日の夜。
まさとから電話が来た。
『たかし、今日どう?』
たかしはスマートフォンを見た。
今週も始まる。
日曜日。
月曜日。
火曜日。
水曜日。
木曜日。
また五日間。
たかしは目を閉じた。
「……今日は断ろう」
初めて、そう決めた。
電話に出る。
「もしもし」
『たかし、今日飲もうぜ』
「……ごめん」
喉が震えた。
「今日は、ちょっと……」
『何?』
「体調が悪くて」
『大丈夫やって』
「いや……」
『一杯だけやぞ』
「……」
『付き合ってくれよ』
沈黙。
たかしは目を閉じた。
そして。
「……分かった」
電話を切った。
部屋の中が静かになる。
たかしは両手で顔を覆った。
泣きそうになった。
断れなかった。
たった一度。
たった一度だけ。
自分の身体を優先したかった。
それすらできなかった。
たかしは小さく呟いた。
「俺って……本当に優しいんかな」
答える人は、誰もいなかった。




