第8話 正社員ではなくなった日
翌朝。
たかしは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
午前五時半。
外はまだ暗い。
眠った気がしなかった。
昨日、会社から言われたことが頭から離れない。
――正社員として続けるのは難しい。
――契約社員への変更を検討している。
ベッドの中で、たかしは天井を見つめていた。
「……どうしよう」
答えは出ない。
スマートフォンを見る。
午前六時前。
通知は何もない。
昨日、りょうたから届いたメッセージだけが残っている。
『明日、飲める?』
たかしは画面を閉じた。
今日も仕事がある。
起きなければならない。
*
洗面所に行く。
鏡を見る。
目の下には濃い隈。
顔はむくんでいる。
腹も以前より大きくなった。
シャツのボタンを留めると、少し窮屈だった。
「……太ったな」
最近、何度も同じことを言っている。
それでも、食生活を変えようとは思わなかった。
夜は酒。
飲み会では揚げ物。
深夜にラーメン。
それが当たり前になっていた。
そして、週末はほとんど寝ている。
運動する時間などない。
「今日から少し減らそう」
そう思った。
けれど、その日の夜には忘れていた。
*
会社に着く。
いつもと同じように挨拶する。
「おはようございます」
しかし、昨日までとは何かが違う。
周囲の人間が自分を見ているような気がした。
もちろん、実際には誰も気にしていない。
それでも、たかしにはそう感じられた。
自分だけが、
――正社員ではなくなるかもしれない。
という事実を知っている。
それだけで、職場の空気が違って見えた。
*
午前十時。
上司から呼ばれた。
「たかし、正式に決まった」
「……はい」
「来月から契約社員という形にする」
たかしは黙った。
「給与も今までより下がる」
「どれくらいですか?」
「詳細は後で人事から説明がある」
「……分かりました」
「仕事自体は続けてもらう」
その言葉だけが救いだった。
「ありがとうございます」
「ただし、今後また遅刻や欠勤が続くなら、契約更新そのものも難しくなる」
「はい」
「分かったな?」
「はい」
たかしは頭を下げた。
部屋を出る。
廊下を歩く。
自分の席へ戻る。
パソコンの前に座る。
画面を見つめる。
文字が頭に入ってこない。
正社員ではなくなった。
その事実が、何度も頭の中を回る。
*
昼休み。
たかしは一人で弁当を食べた。
スマートフォンを見る。
五人のグループには、いつものようにメッセージが流れていた。
『今週どこ行く?』
『新しい店できたらしい』
『パチンコも行こうぜ』
たかしは何も書かなかった。
すると、なおとから個別にメッセージが来た。
『たかし、今日飲める?』
たかしは画面を見た。
今日は火曜日。
なおとの休日は水曜日。
いつもの誘いだった。
だが、今日は気分が違った。
たかしは返信を打った。
『今日はちょっと……』
送信しようとした。
指が止まる。
削除する。
もう一度入力する。
『仕事があって』
また消す。
結局、
『行けるよ』
と送った。
数秒後。
『さすがたかし!』
返信が来た。
たかしはスマートフォンを伏せた。
「……俺、何やってんだろ」
小さく呟いた。
*
その夜。
なおととの飲み会。
「お疲れ!」
「お疲れ」
「最近どう?」
「まあまあ」
「仕事は?」
「普通」
たかしは何も話さなかった。
正社員から契約社員になったことも。
給料が下がることも。
借金が二千万円を超えていることも。
何も言わなかった。
「たかし、最近元気ない?」
「そう?」
「なんか暗いぞ」
「ちょっと疲れてるだけ」
「仕事頑張りすぎちゃう?」
「……そうかも」
なおとは笑った。
「まあ、飲もうや」
「うん」
*
酒が進んだ。
なおとは仕事の自慢を始めた。
「今月、また契約取ってな」
「すごいな」
「歩合だけで結構入るんよ」
「いいな」
「たかしも営業やれば?」
「俺には無理やって」
「やってみな分からんやん」
「そうやけど……」
「努力せんと何も変わらんぞ」
その言葉を聞いて、たかしは黙った。
昨日、会社で言われた言葉と重なった。
努力。
努力。
努力。
自分は努力していないのだろうか。
高校を卒業してから、ずっと働いてきた。
仕事をして。
生活して。
友達の誘いにも付き合って。
それでも何も残っていない。
たかしは、何とも言えない気持ちになった。
「……俺、頑張ってるつもりなんやけどな」
ぽつりと言った。
「ん?」
「いや、何でもない」
*
その後、パチンコ店へ向かった。
「俺、パチンコ嫌いやって」
たかしが言った。
「一緒に行こうや」
「負けるから嫌なんよ」
「今日は勝つって」
「でも……」
「たかし、付き合い悪いぞ」
たかしは黙った。
「……分かった」
店に入る。
大音量の音楽。
光る画面。
大量の人。
たかしは苦手だった。
座っているだけで疲れる。
なおとは楽しそうに打っている。
「たかしも打てよ」
「俺はいい」
「じゃあ金貸して」
「え?」
「ちょっとだけ」
たかしは財布を開いた。
「……はい」
なおとに金を渡した。
「ありがとう」
なおとは笑った。
その金が返ってくることはなかった。
*
その夜、帰宅したたかしは、ベッドに座った。
財布を見る。
また減った。
給与は下がる。
借金は残る。
支払いは増える。
それでも、明日も仕事へ行かなければならない。
たかしはスマートフォンを開いた。
まさとからメッセージ。
『日曜空けといてな』
ひろしから。
『月曜また飲もうぜ』
ながとから。
『水曜よろしく』
りょうたから。
『木曜な』
たかしは五つのメッセージを順番に見た。
そして、全部に返信した。
『了解』
『分かった』
『行く』
『よろしく』
『うん』
スマートフォンを置いた。
その瞬間。
たかしは気づいた。
自分の一週間が、すでに自分のものではないことに。
日曜日も。
月曜日も。
火曜日も。
水曜日も。
木曜日も。
予定は全部、他人との約束で埋まっている。
金曜日と土曜日は、疲れ果てて寝ている。
自分のために使う時間は、ほとんどない。
それでも。
たかしは五人を嫌いになれなかった。
むしろ、
――自分を誘ってくれる。
――自分を必要としてくれる。
――自分を友達だと思ってくれている。
そう考えていた。
*
数日後。
会社から給与明細を渡された。
たかしは数字を見た。
「……」
手取りが減っている。
当たり前だった。
契約社員になったのだから。
それでも、たかしにはその数字が現実とは思えなかった。
二千万円を超える収入を得ている友人たち。
その友人たちとの飲み代を払い続ける自分。
そして、自分自身の収入は減った。
たかしは苦笑した。
「逆やろ……」
昔は、自分が働いていて、みんなが学生だった。
今は、みんなが成功していて、自分だけが取り残されている。
それなのに。
支払う人間だけは、昔のままだった。
*
その夜。
たかしは一人でコンビニに入った。
弁当を手に取る。
酒の棚を見る。
一瞬、手が止まった。
今日は飲まない。
そう思った。
けれど、スマートフォンが鳴った。
りょうただった。
『今日、ちょっとだけ飲まへん?』
たかしは画面を見る。
そして酒を一本取った。
「……一本だけ」
レジへ向かった。
*
その日から、たかしは酒を「付き合い」だけではなく、一人でも飲むようになった。
眠れない夜。
不安な夜。
寂しい夜。
仕事で嫌なことがあった夜。
酒を飲む。
飲むと少し楽になる。
嫌なことを考えなくて済む。
だから、また飲む。
そして翌朝、身体が重くなる。
遅刻する。
仕事を休む。
怒られる。
ストレスが溜まる。
また酒を飲む。
そんな循環が始まった。
*
健康診断の日。
たかしは病院へ行った。
採血をする。
結果が出る。
医師が言った。
「血糖値がかなり高いですね」
「……はい」
「生活習慣を見直してください」
「分かりました」
「このままだと糖尿病の治療が必要になります」
たかしは黙った。
「お酒は飲みますか?」
「……はい」
「どれくらい?」
「週に……」
たかしは一瞬止まった。
「週に何回くらいですか?」
医師が尋ねる。
たかしは答えた。
「……五回くらい」
自分で言って、初めて気づいた。
五回。
日曜日から木曜日まで。
ほぼ毎日。
「少し減らしてください」
「……はい」
病院を出る。
外の空気を吸う。
たかしはスマートフォンを見た。
まさとからメッセージが来ていた。
『日曜、いつもの店な!』
たかしは画面を見つめた。
医師の言葉が頭に浮かぶ。
――生活習慣を見直してください。
そして、たかしは返信した。
『了解』
送信。
その瞬間、たかしは自分でも分からないほど小さな声で呟いた。
「……これも週一回や」
自分を納得させるように。
何度も。
「週一回だけ」
「週一回だけやから」
そう繰り返した。
けれど、その「週一回」が五人分あることを、たかしはもう考えようとしなかった。
そして、その頃には。
たかしの身体の中でも、静かに何かが壊れ始めていた。




