第10話 五人の中の一人
日曜日の夜。
たかしは、まさとの待つ居酒屋へ向かっていた。
歩くたびに、身体が重い。
最近、少し歩いただけでも息が上がる。
以前履いていたズボンも、きつくなっていた。
それでも、たかしは店へ向かった。
断れなかった。
いや。
正確には、一度断ろうとした。
それでも行くことを選んだ。
だからこそ、たかし自身にも言い訳ができなかった。
「……俺が行くって言ったんや」
小さく呟く。
誰かに連れてこられたわけではない。
自分で家を出た。
自分で店へ向かっている。
自分で財布を持っている。
だから。
全部、自分の責任なのだ。
*
店に入ると、まさとが手を上げた。
「おう、たかし!」
「お疲れ」
「遅かったやん」
「ごめん」
「まあ座れって」
席につく。
ビールが運ばれてくる。
「乾杯!」
「乾杯」
たかしはグラスを持った。
そして一口飲んだ。
その瞬間。
身体の力が抜けた。
嫌なことを考えなくて済む。
会社のこと。
借金のこと。
病院のこと。
将来のこと。
全部、少し遠くなる。
「……やっぱり酒って楽やな」
思わず呟いた。
「何?」
「いや、何でもない」
*
まさとは楽しそうに話していた。
新しい店の話。
スタッフの話。
売上の話。
客の話。
たかしは頷く。
「すごいな」
「まあな」
「俺には無理やわ」
「たかしもやればええやん」
「俺には資格もないし」
「資格なんて取ればええやろ」
「……」
「やる気やって」
まただった。
たかしはグラスを握った。
「そうやな」
笑った。
それ以上は言わなかった。
*
しばらくして。
まさとが突然言った。
「そういや、たかし」
「ん?」
「お前、最近太った?」
「……やっぱり?」
「腹すごいやん」
「最近ちょっとな」
「酒飲みすぎちゃう?」
「……かもな」
「健康には気をつけろよ」
「うん」
まさとは笑った。
「俺らももう若くないしな」
「そうやな」
まさとはビールを飲んだ。
そして、何気なく言った。
「まあ、俺は週一回しか飲まんけどな」
たかしは一瞬、固まった。
「……うん」
そうだった。
まさとにとっては週一回。
それは間違っていない。
たかしと会うのは週一回だけ。
まさとは知らない。
明日はひろし。
明後日はなおと。
その次はながと。
さらに、その次はりょうた。
五人は互いに、それを知らない。
*
まさとが言った。
「たかしも週一回くらいなら、そんな飲みすぎちゃうやろ」
「……そうやな」
たかしは笑った。
嘘ではない。
でも。
本当でもなかった。
*
その夜。
店を出る。
「たかし、今日はありがとうな」
「うん」
「また来週な」
「うん」
まさとは帰っていった。
たかしは一人になった。
そして、スマートフォンを見る。
明日の夜。
ひろしから予定が入っている。
たかしは画面を見ながら思った。
――まさとは、俺が明日も飲みに行くことを知らない。
当然だ。
教えていない。
たかし自身も言わない。
だから、誰も悪いと思っていない。
*
月曜日。
ひろしとの飲み会。
「たかし、今日も頼むわ」
「うん」
火曜日。
なおと。
「たかし、パチンコ行こうぜ」
「……分かった」
水曜日。
ながと。
「最近ストレス溜まっててな」
「そうなん?」
「聞いてくれよ」
「うん」
木曜日。
りょうた。
「今日、キャバクラ行こうぜ」
「……分かった」
五人とも。
自分がたかしにとって、その週の何回目の飲み会なのか知らない。
*
木曜日の夜。
りょうたと二人で飲んでいた。
「たかし」
「ん?」
「お前って、ほんま昔から変わらんな」
「そう?」
「優しい」
「……」
「俺が大学生の頃、よく奢ってくれたやん」
「そうやったな」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
「あの頃、俺ら金なかったからな」
「うん」
「たかしだけ働いてたもんな」
たかしは笑った。
「そうやった」
「今は俺らのほうが稼いでるけどな」
「そうやな」
「でも、たかしが奢ってくれるから楽やわ」
冗談のように言った。
たかしも笑った。
「何で俺なんやろな」
「え?」
「いや……何でもない」
*
りょうたは続けた。
「でもさ」
「うん」
「俺らも、たかしのこと嫌いじゃないからな」
「……うん」
「だから女紹介するって言ってるやろ」
たかしは顔を上げた。
「本当に?」
「本当やって」
「いつ?」
「そのうち」
「……そっか」
たかしは笑った。
その言葉だけで、また救われた気がした。
*
その後、キャバクラへ向かった。
店内は明るい。
女の子たちが笑っている。
りょうたは慣れた様子で席についた。
たかしは隣に座った女性と話した。
「お仕事何されてるんですか?」
「普通の会社員です」
「そうなんですね」
「はい」
「彼女は?」
「いないです」
「えー」
女性は笑った。
「優しそうなのに」
また、その言葉。
たかしは苦笑した。
「ありがとうございます」
「結婚したいとか思わないんですか?」
「したいです」
「じゃあ、いい人見つけないと」
「……そうですね」
たかしは少しだけ寂しそうに笑った。
結婚。
子供。
家庭。
ずっと欲しかったもの。
でも、今の自分には遠すぎる。
*
店を出る。
りょうたが言った。
「たかし、今日はありがとう」
「うん」
「女の子、いい子やったやろ?」
「うん」
「そのうち紹介するから」
「本当に頼むで」
「任せとけ」
たかしは笑った。
その笑顔を見て、りょうたも笑った。
そして二人は別れた。
*
帰宅したたかしは、財布を開いた。
中には小銭しか残っていない。
銀行口座を確認する。
残高は、わずかだった。
スマートフォンを見る。
クレジットカードの利用額。
今月の請求。
借金。
どれも減っていない。
むしろ増えている。
「……どうしよう」
初めて、声に出した。
誰にも聞かれない部屋。
だから、言えた。
「俺……どうするんやろ」
*
翌朝。
たかしは目覚ましを止めた。
身体が動かない。
昨日の酒が残っている。
喉が渇いている。
頭が痛い。
それでも仕事へ行かなければならない。
時計を見る。
午前八時十五分。
「……遅刻や」
慌てて起き上がる。
会社へ連絡する。
また遅刻。
上司の顔が浮かぶ。
契約更新。
勤務態度。
正社員ではない。
たかしは急いで家を出た。
*
その日の夕方。
会社で上司に呼ばれた。
「また遅刻だな」
「すみません」
「体調管理も仕事のうちだ」
「はい」
「このまま続くと、本当に契約更新できないぞ」
「……はい」
「分かったか?」
「分かりました」
席に戻る。
たかしは椅子に座った。
パソコンを見る。
仕事が溜まっている。
頭が回らない。
身体も重い。
それでも。
スマートフォンを見る。
ながとからメッセージが届いていた。
『今日、飲める?』
今日は水曜日。
たかしは画面を見つめた。
行きたくない。
本当に行きたくない。
でも。
断ったら。
嫌われるかもしれない。
女の子を紹介してもらえなくなるかもしれない。
友達でなくなるかもしれない。
その恐怖が、また勝った。
『行く』
返信した。
*
その夜。
ながとが言った。
「たかし、最近疲れてる?」
「そう?」
「顔色悪いぞ」
「ちょっと寝不足で」
「ちゃんと休めよ」
「うん」
ながとはビールを飲んだ。
「俺らも仕事大変やからな」
「そうやな」
「週一回くらい、こうやって飲まんとやってられんわ」
たかしは笑った。
「……そうやな」
また同じ言葉。
週一回。
ながとにとっては週一回。
たかしにとっては、その夜が今週四回目の飲み会だった。
*
帰宅した。
たかしは靴を脱ぐことさえ面倒だった。
玄関に座り込む。
そして、ふと気づいた。
自分の部屋に、ほとんど物がない。
必要最低限の家具。
古いテレビ。
安いテーブル。
冷蔵庫。
ベッド。
それだけ。
友達には家族がいる。
妻がいて。
子供がいて。
家があって。
帰れば「おかえり」と言ってくれる人がいる。
たかしにはいない。
帰っても。
「ただいま」
と言う相手がいない。
「……俺も家族欲しいな」
小さな声だった。
*
その瞬間。
スマートフォンが鳴った。
りょうたからだった。
『たかし、木曜よろしくな』
たかしは笑った。
「……明日か」
五日目。
最後の飲み会。
そして金曜日と土曜日は休み。
たかしはベッドに横になった。
疲れ切っていた。
身体は限界だった。
それでも。
明日が終われば休める。
そう思った。
*
木曜日。
りょうたと飲んだ。
酒を飲んだ。
パチンコへ行った。
負けた。
キャバクラへ行った。
払った。
帰宅した。
午前二時。
たかしはベッドに倒れ込んだ。
金曜日。
会社へ行った。
身体が重かった。
土曜日。
一日中寝た。
そして。
日曜日。
夕方。
スマートフォンが鳴った。
まさとだった。
『たかし、今日飲もうぜ』
たかしは画面を見た。
五日間が終わったばかりなのに。
また始まる。
たかしは目を閉じた。
そして、
『分かった』
と送った。
その瞬間。
たかしは自分の一週間が、また誰かのために消えていくことを理解した。
それでも、断らなかった。
なぜなら。
たかしにとって、
「誘われること」
そのものが、
「自分はまだ必要とされている」
という証明になっていたからだった。




