第6話 優しさしかない
たかしは、自分に何があるのか考えた。
三十九歳。
独身。
彼女なし。
結婚歴なし。
子供なし。
年収三百万円。
資格なし。
正社員ではない。
貯金もない。
借金はある。
仕事では遅刻や欠勤が増えている。
体重も増えた。
健康診断の結果も、年々悪くなっていた。
そして、何より。
自分には自信がなかった。
鏡を見る。
そこに映る自分を見て、たかしは思った。
――俺って、何ができるんだろう。
答えが出ない。
仕事ができるわけではない。
金持ちでもない。
資格もない。
話がうまいわけでもない。
女性にモテるわけでもない。
体力があるわけでもない。
何か特別な才能があるわけでもない。
それでも。
一つだけ、たかしが自分を肯定できる言葉があった。
――優しい。
友達にそう言われる。
昔からそう言われてきた。
だから、たかしはそれを信じた。
*
日曜日の夜。
まさとから電話が来た。
『たかし、今日どう?』
「大丈夫」
『飲もうぜ』
「うん」
即答だった。
以前なら少し迷った。
今では迷わなくなっていた。
電話を切る。
たかしは財布を取った。
そして家を出た。
もう「断る」という選択肢そのものを考えなくなっていた。
*
居酒屋で、まさとが言った。
「たかしって、ほんま断らんよな」
「そうかな?」
「何頼んでも嫌な顔せえへんやん」
「まあ……」
「だからええ奴なんやろな」
「そう?」
「そうやって」
まさとは笑った。
たかしも笑った。
その言葉を聞いていると、胸の奥が少し温かくなる。
――俺は、まだ必要とされている。
それだけでよかった。
*
月曜日。
ひろしから誘われた。
「今日飲もうや」
「うん」
火曜日。
なおと。
「今日空いてる?」
「うん」
水曜日。
ながと。
「ちょっと付き合ってくれよ」
「分かった」
木曜日。
りょうた。
「今日、飲もう」
「もちろん」
五日間。
五人。
たかしは一度も断らなかった。
*
ある木曜日の夜。
りょうたと飲んでいるときだった。
「たかし」
「ん?」
「お前さ」
「うん」
「もっと自分のために金使ったら?」
たかしは笑った。
「俺、金ないから」
「でも、俺らには使うやん」
「まあ……」
「なんで?」
「友達やから」
「それがたかしのいいところやな」
りょうたは笑った。
「ほんま優しいわ」
たかしは俯いた。
「……ありがとう」
「でも、その性格やと女に騙されるぞ」
「彼女おらんけどな」
二人で笑った。
「まあ、女の子紹介したるって」
「ほんま?」
「ほんまやって」
「いつ?」
「そのうちな」
「楽しみにしてる」
たかしは笑った。
その会話は、もう何度目だったか分からない。
*
土曜日。
たかしは一人だった。
部屋の中は静かだった。
テレビをつけても面白くない。
スマートフォンを見ても、五人から連絡はない。
当たり前だった。
五人には家族がいる。
土曜日と日曜日は家族と過ごす。
たかしは、それを知っていた。
だから、寂しくなかった。
――自分だけの時間だ。
そう思おうとした。
でも。
何をしていいのか分からなかった。
資格の勉強をしようと思った。
机の上に参考書を置く。
ページを開く。
数分後。
眠くなった。
頭が回らない。
そのまま横になった。
*
日曜日。
昼過ぎに目を覚ました。
身体が重い。
腰が痛い。
胃がもたれている。
それでも、夕方になると少し元気になった。
テレビを見ながら、たかしは思った。
「明日から頑張ろう」
何度もそう思ってきた。
月曜日から。
来週から。
来月から。
給料が入ったら。
借金を減らしたら。
仕事が落ち着いたら。
――いつか。
いつも「いつか」だった。
*
午後八時。
スマートフォンが鳴った。
まさと。
『たかし、今日どう?』
「うん。大丈夫」
『飲もうぜ』
「分かった」
たかしは立ち上がった。
そして財布を確認した。
中には千円札が数枚。
給料日はまだ先。
クレジットカードは限度額が近い。
銀行口座にもほとんど残っていない。
それでも、
「まあ、何とかなるか」
と言った。
*
店へ向かう途中。
たかしは、自分の人生について考えた。
もし、五人と出会っていなかったら。
自分はどうなっていただろう。
もっと貯金できていたかもしれない。
資格を取れていたかもしれない。
転職できていたかもしれない。
彼女ができていたかもしれない。
結婚していたかもしれない。
子供がいたかもしれない。
でも。
そんな考えは、すぐに打ち消した。
「いや……」
たかしは首を振った。
「友達は大事や」
五人がいなかったら、自分はもっと孤独だった。
そう思った。
だから、これでいい。
これが自分の人生だ。
たかしはそう思い込んだ。
*
店に着く。
まさとが手を上げた。
「たかし!」
「おう」
「遅かったな」
「ごめん」
「飲もうぜ」
「うん」
ビールが運ばれてくる。
乾杯する。
「今週もお疲れ!」
「お疲れ」
たかしはビールを飲んだ。
冷たくて美味しかった。
その瞬間だけは、何も考えなくてよかった。
借金も。
仕事も。
将来も。
孤独も。
全部忘れられた。
だから、たかしは飲んだ。
もう一杯。
もう一杯。
そして、また一杯。
*
帰り際。
まさとが言った。
「たかし、来週も頼むな」
「うん」
「ほんま、お前がおらんとつまらんわ」
たかしは笑った。
「俺も」
「また飲もう」
「うん」
たかしは手を振った。
まさとの車が遠ざかる。
一人になる。
夜道を歩きながら、たかしは嬉しかった。
――俺は必要とされている。
それだけでよかった。
*
数週間後。
たかしの会社で、正式な話が出た。
「契約更新についてだが……」
上司が言った。
「勤務状況が改善されていない」
「……はい」
「このままだと、次の更新は難しい」
たかしは何も言えなかった。
「遅刻も欠勤も多い」
「すみません」
「仕事そのものは問題ない」
その言葉に、たかしは顔を上げた。
「ただ、出勤できないなら会社としても難しい」
「……分かりました」
席へ戻った。
手が震えていた。
契約更新。
もし更新されなかったら。
収入がなくなる。
家賃が払えない。
借金も返せない。
生活できない。
その日の夜。
たかしは五人に相談しようと思った。
グループメッセージを開く。
文章を入力する。
『仕事が……』
そこまで書いて、消した。
もう一度入力する。
『ちょっと相談がある』
また消した。
結局、何も送らなかった。
こんな話をしたら、心配される。
迷惑をかける。
そう思った。
*
その夜。
りょうたから個別にメッセージが届いた。
『明日飲もうぜ』
たかしは画面を見た。
明日は水曜日。
りょうたの休日は金曜日だから、木曜日の夜に誘うはずだった。
今日はまだ火曜日だった。
珍しい誘いだった。
『どうしたん?』
返信する。
『仕事でちょっと嫌なことあってさ』
たかしは笑った。
自分も仕事で嫌なことがある。
でも、りょうたも大変なのだ。
そう思った。
『いいよ』
返信した。
すると、
『やっぱたかしは優しいな』
と返ってきた。
たかしは、その言葉を見つめた。
そしてスマートフォンを胸に置いた。
「……優しい、か」
たかしは目を閉じた。
自分には、それしかない。
金もない。
仕事も不安定。
資格もない。
恋人もいない。
家族もいない。
成功もしていない。
それでも――
優しい。
それだけはある。
たかしは、そう信じた。
*
翌日。
たかしはりょうたと飲みに行った。
その次の日は、ながと。
その次は、またりょうた。
予定は少しずつ崩れていった。
五人の「週一回」は、時々重なった。
しかし、たかしは断らなかった。
断るたびに、
「悪いな」
「ごめん」
「また今度」
と言うくらいなら。
行ったほうが楽だった。
飲んでしまえば、楽しかった。
笑っていれば、嫌なことを忘れられた。
そして帰ると、
「今日も楽しかったな」
と思えた。
だから気づかなかった。
たかしが一番楽になれる場所が、
たかしの人生を一番苦しくしている場所になっていることに。
*
そして、ある夜。
たかしは一人で自宅の洗面所に立っていた。
鏡を見る。
顔が丸い。
腹が出ている。
目の下には隈。
髪も薄くなってきた。
疲れた顔だった。
それでも、たかしは自分に笑いかけた。
「大丈夫」
そして言った。
「俺は優しいから」
その言葉を言えば、まだ自分を嫌いにならずに済んだ。
だから、たかしは何度でも繰り返した。
「俺は優しい」
「俺は、いい奴や」
その言葉が、
いつしか自分を守るための言葉ではなく、
自分を壊すための言葉になっていることを知らずに。




